第5期入選作(2017.4-6)

日本現代詩人会 詩投稿作品 第5期(2017年4-6月)

厳正なる選考の結果、入選作は以下のように決定致しました。

【選考結果】

杉本真維子選:
鎌田伸弘「ムッシュー」
橘麻巳子「月見草」
武田地球「カンボジアの果物係り」
寝兎紙慈「ゆうやけネズミ」
清龍源一郎「反戦歌」
森口みや「墨を趁う」

 

石田瑞穂選:
黒崎水華「瓶底に櫻の花が沈んでいる」
原聡「無題」
発条ねりさす「不臭」
早計層「氷結」
采目つるぎ「Graphite」

 

八木幹夫選:
該当作なし (投稿数389作品・投稿者222名・入選作11作品・11名/敬称略・順不同)

 


ムッシュー
鎌田伸弘

 

きょうムッシューがたおれた。
病名は肺気腫というのだそうだがわたしにはよくわからない。肺が
ふくらんで破れそうになったところで意識をうしない救急車で運ば
れた。ムッシューの家からもわたしの家からもかなりはなれた川越
からさらにバスで四〇分行ったところの病院に入院した。
だいぶよくなったけどまだしばらく退院できそうにないなとムッシ
ューはいった。やっぱり煙草のすいすぎだってさ。そういう電話の
むこうのかれのこえはシューシューいっていた。

 

はじめて川越駅に降り立った。灼熱の太陽がぎらぎらと輝き眼をあ
けていられないほどだった。駅前のロータリーには人があふれざわ
ついていた。わたしの胸もざわつきけば立ってくる。ギラギラする
鰻の弁当をひとつ買って二時のバスに乗り込むと窓から横断幕が眼
に飛びこんできた。「八月三日川越花火大会」。きょうは八月三日。
病院の昏いベッドに横たわったムッシューの姿があたまに浮かんだ。
あたりにはけむりがただよっている。おいおい病室で煙草かよとお
もったらムッシューのからだからけむりは出ていた。パジャマのま
えをはだけて瘠せた胸にぽっかりと穴があいてそこからでていた。
シュウシュウいってエンコしたくるまみたいだった。花火のように
きれいには打ちあがりそうになかった。

 

ムッシューはなぜムッシューといわれるのかはわからない。わたし
と知りあうまえからそう呼ばれていた。ムッシュなんとかいうミュ
ージシャンに似ているわけでもなかった。ムッシューもなにも語ら
なかったしわたしもなにも訊かなかった。たしかカミュの『異邦人』
のなかで主人公のムルソーがそう呼ぶか呼ばれるかのくだりがあっ
たはずだ。だからわたしのなかでいつのまにかムッシューはムルソ
ーだった。太陽が眩しかったから人を殺したあのムルソー。ムッシ
ューもワルだった。しかしかれがしたのはケチなぬすみや喧嘩ばか
りだった。でもいちどだけ留置所で夜を明かしたことがあるらしい。
酒をのみながらなんどもそのはなしをきかされた。煙草のすいかた
がかっこよかった。ぬすみ見してよくまねした。

 

バスは城下町を抜けて郊外へそして田園風景が広がる。ジーンズの
尻ポケットに文庫の異邦人を突っこんできたがひらかなかった。バ
スは江戸を抜け南仏そしてアルジェへと。いったいどこへ運ばれる
のかという気になる。バスを降りるとくらくらした。太陽のせいに
した。
ムッシューは照れくさそうにわらった。食欲だけはあるんだよとい
いながら鰻は半分も食べられなかった。箸をおいてちきしょうタバ
コすいてえなといった。タバコは夏がうまいのにな。煙草に季節な
んてあるんだろうか。おもったがなにもいわずにわらった。かれも
わらった。前歯が欠けていた。みなれているはずなのにかなしくな
った。

 

帰りのバスはまるでフィルムの巻戻しだった。アルジェ南仏そして
江戸。太陽がちりちりとフィルムを焦がす。尻ポケットの異邦人は
ついにひらかなかった。
駅前にはゆかたの男女があふれていた。暮れなずむ太陽のひかりが
ゆかたの男女を汚らしくみせた。ムッシューのほうがよっぽどきれ
いだった。花火は見ずに帰った。事態が急変するとはつゆしらずに。

 

   *   *   *

 

きょうムッシューが死んだ。
もしかするときのうかもしれないがわたしにはわからない。
ムッシューとちいさくつぶやいた。なんだかムルソーときこえた。
ムルソー。川越のムルソー。

月見草
橘麻巳子

 

旅行客に差し出す
それでも安い花束をひとつ
受け取る硬貨の一部を
ばら売りの煙草に換える
取り分をおさめる広場で
モザイク製の大蜥蜴が
ツアー客を追い回すのを見る
駆けるごと剥がれる鱗を数えれば
ガラス越しに指紋を一舐めされる
生まれたての蜥蜴の子が
後ろ足で立ち
犯そうとして追ってくるのを
踵のしなる靴で踏みつける女が好きだ
商売の前後に必ず
前髪用の櫛で整える鏡に
映り込む
からだを満ち欠けさせる女は
部屋の中を縫い縮める
糸を何度つまみあげても居場所を増やす
硬貨が投げられるまでの数秒
死んだかたちでいる

カンボジアの果物係り
武田地球

 

ピカピカの服を着ていたカンボジアの果物係りの少年は
20年もおなじ係りをしているうちに
果物のことが何にもわからなくなってしまった

 

それでも果物係りはその場所にしがみついて
コンビナートの機械みたいにセッセと果物を捌いては、ひとり安心をしている
この道は引き返せないと、思いこんでいる

 

アンコールワットでミルクフルーツを割ったとき
果物係の夢だったものがジトリと流れ落ちて、わたしの頬が上気した
彼が、ビー玉の目で、ジイッと、見ていた
なんだかいっそうやりきれなくて
20年も着古した帽子を借りて、おどけてみせた
果物係りは、ケラケラと笑っていた

 

夕暮れ、行きかう人たち
幾ばくかの祈りを捧げて
一日が、閉じていく

ゆうやけネズミ
寝兎紙慈

 

  三丁目のネズミ
  捕って食われたらしい。

 

ガキどもがキーキー鳴くあいつを引っ張って遊んでるのを見た
俺はススキに紛れて走った
ネズミ捕りにかかった三丁目のやつも
トンビに食われたやつも
置き去りにして俺は走った

 

  鍋のにおい、
  障子越しのあかり、
  すすきの野原にねころんだ、
  あのこははだし。

 

あの子がなくのが聞こえてからさ
ヒグラシの空の忘れちゃいなかった
ガキどもの笑い声がこだましてる。

 

  ゆうやけこやけ、声を合わす。
  家路の子供たちが、影を追いかけて。
  あのこは、あの娘はないてる
  ゆうやけのうちにかえっておいで、

 

夕焼けネズミ、あの屋根裏に
辿り着けなくなったのは
枯れちまったからさ
ススキ、家、あの子のにおい。

 

夕焼けネズミ、どれだけ這いずり回っても
あの子の居場所がわからないのは
迷っちまったからか?
夕焼けの中、まだ帰れずに

 

  すすきの野原でもめんの裾を
  おさえながら川のほうをながめて

 

最後に聞いた三回となえたあの鳴き声を
願いごとって呼ぶんだってさ、
ススキの野原を抜出して
俺は川辺で、真っ赤な水を飲んだ
真っ赤な水は水色に戻る

 

  ずっとまっかなままでいて、
  ずっとまっかなままでいて、
  ずっとまっかなままでいて。

 

  ネズミが走る、這って、這って、
  とんび野郎に見つからないようにね、急いで。

 

  ゆうやけこやけ、ゆうやけこやけ、

 

  あーあ。ばいばい、ばいばい。

 

あの子は何処かと俺は鳴いた
ススキが風に吹かれて鳴った
水のむこうにさかさまの家
なんでもねえさ、くたばるだ

反戦歌
清龍源一郎

 

 反戦
 反戦
 反戦
 戦争は絶対にしないほうがよい
 でも
 反戦といいながら
 何かと闘っている
 何で闘うのだろう。

 

 ノーモアミナマタ

 

 ノーモアミナマタ
 ノーモアヒロシマ
 ノーモアナガサキ
 恨んでいるわけではない
 復讐したいわけではない
 同じ過ちを、二度と繰り返してほしくないだけ。

 

 昔の僕

 

 昔の僕が、今の僕を応援している、
 昔のあなたが、今のあなたを応援している、
 だから大丈夫。

墨を趁う
森口みや

 

含みたての香
俄か雨に呼びもどされ
取りこぼされた筆の先から しとど
匂い立つ

 

仄白い 障子の内
銀鼠色にたなびゆく
床の間に坐する藤の樹皮の、
剥落しかけた箇所へ ささめきかけ
ふかくに眠っていた
若紫を誘いだし
共だって 床柱に添い昇る
四隅に行きつき
捲き返れば
こちらを仰いでいる

 

眼を開いたままの
男が一体

 

雨が止み 女が戸を開けにくれば
墨と同じに
灌がれてゆくのか
半端な言葉尻も
同じはやさで乾くのか

 

糸雨に移りゆく
そして自ずと薄れゆく
依る名もなく
香の行く末を知ることもなく
我はしとど
我知らず 呼びもどされるものとなり

 

ただ黙して 墨を趁う

瓶底に櫻の花が沈んでいる
黒崎水華

瓶底に櫻の花が沈んでいる

 

その白い憂鬱を染める月明かりが
一層空気を青くする夜

 

開いてゆく距離と熱が蝶の翅を壊した
舟は軋んでシーツの海は荒波を立てる

 

爪は背骨を引っ掻いて猫は唸る
冷蔵庫が低い声で呻いた
言葉が多過ぎる事を嘆いた背表紙
切り刻まれた時間の音を眺めて
息絶える化石の密やかな蜜を封じる
琥珀色の液体を飲み干して
深海魚が宙を過ぎった
長い尾鰭が優雅に翻るので
白日に晒した赤い虚実が柘榴の実と成り
ベッドの下に溢れている

 

排水口に詰まった真珠は人魚の呼吸
真昼に染めた爪が花宵の嵐と化したのだ

 

含んだ柑橘類の馨ばかり
亡霊を呼び寄せるのだ
耳の傍で囁き続ける所為で
私は現實において幻日を幻視する

 

斜視であるが故に偏愛して
言葉を蒐集する

 

食べ残した耳鳴りが傘の下で
眼を出している

無題
原聡

 

春は田に水を入れるころ。風と泥と太陽のにおい。たんぽぽ。つくし。すみれ。苗代。俺はそんな風景を鳥になって見ている。誰だったか。俺か。あの少年は。何を考えてたっけ。俺だとしたら。

 

集落の家々では田植えの準備が始まっている。耕耘機が揺れながら砂利道を走っている。エンジンの音は遠ざかる。少年はまっすぐ家に帰らずに、道ばたにランドセルを置いて道具のない遊びをする。

 

近所のやつら。三人、四人。汚れた穴の空いたズボン。ぼさぼさの髪。。風のよう軽く早く移動できる。学校の体育館が眼下に見える。あれは俺に似た誰かか。俺そのものか。では今の俺は誰か。

 

土曜日の昼。農協の屋根にあるサイレンが鳴っておとなたちはアクビをする。となりの集落や駅の近くの街を過ぎる。ように、ではなく。俺は風になっている。そのものに。

 

仮縫いの糸。断片はつながらず。あの時から今までは連続せず。一つ一つは独立して閉じ込められ。夢であったか。違う時を行ったり来たりするのは何故か。今さえも過去か。今とは何か。いつか。

 

夜カエルがないて。風で窓がガタガタ音をたて。つるつるの表紙の教科書はインクのにおいがする。ささくれた教室の床板は雑巾がけのにおいがする。縦笛の音。校庭からの声。

 

駅のちくわ天ゾバ。マイルドセブン。俺は透明な存在にになり若者のとなりに漂う。休講で時間待ちならゲームセンター。パックマン。ギャラ。あの頃の映画女優の髪型。薄い口紅。

 

俺はお前のそばに居る。今はあの時。あの時とはいつのことか。どうつながっているのか。電話番号。ぜろさん。そこから始まる。公衆電話で電話をするたびに。俺は回線の中に侵入する。

 

電電公社の機械を経て。受話器から出てあの若者の耳に腰かける。とりとめのない時間。明日、授業にでるのか。劇団の練習があるの。単位おとしちゃうよ。踏切の音。

 

借りたカローラで目的もなく国道を走る。同乗する奴ら。夜で海も見えず。かぐやひめのカセットを入れるな。カップヌードル食おうぜ。ここに居るのは俺か。俺に似た誰かか。俺自身か。じゃあ今の俺は。

 

月の光は直線的に風景を照らす。俺はどんどん高くなる。彫刻刀が海を削ればそれが波になる。見た事のない場所はあるのか。彼も彼女もあの場所も記憶も。断片は積み重なり崩れる。

 

何の形にもならず。意味も持たず。意志を持たず風に任せて。ライトで照らされた野球場や秋葉原。中川。古利根川。東武電車。バスの排気ガス。田舎の駅舎。尾張屋の屋上。スマートボール。チョッキを来たレコード店主。LPレコードのにおい。

 

月の光は全てを溶かして曖昧にする。水平四気筒空冷エンジン。ジョンレノン。永島慎二。バリーギブ。俺は何を話しているのだろう。誰に話しているのだろう。漢字は分解し、ひらがなは固まり、アルファベットのダンス。誰もその時にしか生きていない。それが事実だ。死んだ人たちもそこに生きる。生まれた人たちはその瞬間に存在する。俺は俺で俺でしかない。今は今でしかない。ばいばい。

不臭
発条ねりさす

 

一度、二度
愛想笑いを浮かべただけの

 

慣れない好意に
大きな壁を挟んだ、あの

 

 

くさい、くさい
くさくて、悔しい

 

握られた手は、励ましでなく
私を捕らえる    檻なのだ

 

くさい、くさい
どうして、悔しい
くさいから、悔しいのだ、

 

しみだらけの笑顔が
差し出された古菓子が
確かな濃霧を持って
脳内に再生されている?

 

 

くさいのだ、悔しいのだ
暗いから、逃げたいのだ
ただの死に様に  泣きたいのだ

 

 

私はあなたを  好きでも嫌いでも無かったのだ

 

 

喉に溜まる嗚咽に  死の影が吸い込まれていく
どろどろに溶けた腕が  今にも襲いかかって来るんじゃアないかと

 

 

私はあなたが  恐いのだ

 

 

私に知識を耕した  見知らぬあなたが恐いのだ

 

 

くさい、くさい
逃げだしたくて、しようがない

氷結
早計層

 

柏でキネマして
父は黙り込む
エデンホテルに死人がいないからか
ベトナムのシャツに吸殻が住んでる
女神は小倉のたいやきを食べて
光の道を飲んでる
古書には
どうすればいいのかとある
太平書林が見つからないのだ
即死的に呼びかけてる
これじゃ夕方の呪文だ
誰も聞こえない
正しい
階段分子が終わった
父は動かない
息はしてく
咳が見える
卑劣な一室を奪えるほどの怪獣がいれば
裸に白紙をぺちぺち貼ってやれるのだが
釈放された常磐だと
せいぜい徴兵された波だ
親愛なる血が緊張して
こわい
稲を振ってみっか
それか狐の香水だ
向こうで夜行バスが怠けてるかもしんない
旅人さん
ハンカチに広がる石から離れると眠くなる
狂えるさん
色あせた舌先を噛んで
水玉を口ずさむ
ああ口笛を浄化しなければ
少男が他男だ
骨が吹き飛んでる
二十分くらい
確率が成り立たない道に行き当たる
先へ木金土の写真
ばらばらのまま結ばれる父は
駅ビルの空調に浮かされた
父は氷の味がする

采目つるぎ
Graphite

 

「黒い口紅、
「呼応する瞼。
「剥離まで何秒?
「多分、求めてないよね、
「意思決定のチャイム。
「沈黙を続けるマキアート、
「掌、貸して、
「舌掴むよ。
「しがみつかせて、お願い。
「---抵抗も許さないの、
「回路の接続、
「閉じないでよ、いい?
「耳鳴りをとて。
「ここに触れて、いる、
「針より細い、
 水脈が決壊するまで、

 


【選評】

杉本真維子評

鎌田伸弘「ムッシュー」

アルジェ南仏、そして江戸――。見えない移動を背後に、人と人を隔てつつ守る、悪い予感の意味が光っている。ついに開かなかった『異邦人』、ついに尋ねなかったムッシューという呼び名の理由。手つかずの距離がそこにあったからこそ、ムッシューの美しさは、ゆかたの男女の汚らしさによって際立ち、「わたし」のムッシューへの憧れは憧れのまま、死によって壊されることのない強固な関係をつくる。「前歯が欠けていた。、みなれているはずなのにかなしくなった」という揺さぶりに耐える一方で、最後、ムッシューを呼ぶ嗚咽のようなものが行がえのリズムに表れる。「なんだかムルソーときこえた。/ムルソー。川越のムルソー」。このような形式で書かれたものは散文か詩かという議論を免れ得ないが、これはまぎれもなく詩だと思った。

橘麻巳子「月見草」

この世のすべての女にはこれくらいの秘密はある。そう思わせたら、この作品は成功だろうと思う。秘密を湛えた女の死の部分を限定的に追うために、あえて「商売」という角度を入れたのかもしれない。死は心身をともない、蜥蜴の子という命によって動かされたり、非情なほど動かなかったりと、極端で、いつでも理解を超えている。凝集力の高い行わけ詩、そのフォルムが「死んだかたちでいる」女そのもののようだ。

寝兎紙慈「ゆうやけネズミ」

地を這うネズミという低い視点から描かれた世界が、民話調のリズムとともに、読み手の生活に身近に寄り添ってくる。最後、「なんでもねえさ、くたばるだけ」に私がはっとしたのは、こういう身の捨て方は、現代において、動物だけのもの、ということに社会はなっているからだと思う。この作品はどこか人間であることの体面を突き、「無理」をほぐして、やわらかな人の声を呼びもどすような批評性がある。「最後に聞いた三回となえたあの鳴き声を/願いごとって呼ぶんだってさ、」という詩行もいい。

武田地球「カンボジアの果物売り」

もう一歩、踏み込みが必要だろうか。スケッチになりそうな危うさがあるが、ここでは、旅先での見知らぬ少年から「わたし」へと突如、憑依するような「夢」に注目した――「果物係りの夢だったものがジトリと流れ落ちて、わたしの頬が上気した」。「果物のことが何もわからなくなってしまった」など、少年についての記述を「わたし」の事情と重ねるというやや平凡な読みも促す一方で、最終的に感応を拒否するような詩の閉じ方が作者の持ち味かもしれない。

清龍源一郎「反戦歌」

最後の二連の飛躍がなかったら、私は詩だとは思わないが、この最後の二連の飛躍ゆえに、これは詩としかいいようがないという驚きがあった。もしかしたら、書き始めたばかりのかたかもしれないが、「反戦歌」というタイトルからはおよそ予想できない「昔の僕」への回帰という自由自在さは、変な言い方だが、詩人のセンスを感じる。これからも自由に書いていってほしい。

森口みや「墨を趁う」

女のような気配と男のような気配が混ざるようで混ざらず、ただ、押し殺された感情と墨の筆先の沈黙がつりあう。その均衡に、なにか悲痛なものが隠れている。「共だって 床柱に添い昇る/四隅に行きつき/巻き返れば/こちらを仰いでいる」など、言葉の異質な合わせ方がやわらかく奇妙なエロティシズムを醸している。やや内にこもりすぎている気もするが、その靄のような意味のなか、一体という男の数え方が効いている。

 


 

石田瑞穂評

 詩と出逢う

 

 東京は蔵前のギャラリー「空蓮房」で約一月の個展を了えた。不思議なギャラリーで、まず、お寺の境内にあります。それから、ギャラリーの入口は、茶室で「にじり」と呼ばれる、成人男性ひとりが腰をかがめてやっとくぐれる非常に狭い戸口になっている。内部は三畳と二畳ほどの二間のみ。点前座・客座と水屋からなる茶室の構造そのもの。全壁面はオフホワイトで塗られ、どの壁、床、天井も垂直にはまじわらず、その接線はゆるやかなアールを描いている。

 その白の部屋には、一回の観覧につき一名しか入場できない。観覧は完全予約制。持ち時間は、ひとり一時間まで。その時間で、観客は展示作品と独りきりでむきあうことができ、他者の視線を介在せず、融通無碍に鑑賞できる。昼寝だって、ご自由にどうぞ。

 最初のスペースでは、詩集『耳の笹舟』から引用された詩行と、書家の北村宗介氏の行書体作品「海」が呼応するように展示。アートディレクションは、詩集の装幀家でもある奥定泰之さん。奥のスペース、床間のような壁面には、詩集の表紙につかわれた「彩雲・あじさい」紙が複数枚、微かな採光口から段差を付され、複層を織りながら吊りさげられていてる。純白の空間に、紙の滝か稲妻が、仄青く落下しつづける。紙の水落とそのうしろの壁面には同一の詩行が印刷されていた。紙と壁面、角度を換えながらながめてみると、詩句と詩句のあいだに光と闇と空間がつくる切り傷がはいったり、狭間がズレたり、ふたたび繋留されたりする。文字が「音ずれ」てゆく。そこには一冊の『耳の笹舟』も設置されていて、どなたか、詩行を朗々と朗読するのが聴こえた。

 こんなふうに、観客には約二年前に刊行された詩集と、一期一会の出逢いをしていただいた。かくいうぼくも、今回のプロジェクトがもたらしたあらゆる偶然のいたずらによって、じぶんが書いたはずの言葉と予想もしなかったかたちで出逢ったのだ。

 詩と出逢う。それはまた選者の仕事であり幸福なわけだけれど、無論、詩の書き手自身にもおなじことがいえます。

 読者に、どんな詩の言葉と出逢ってもらいたいか。そこまでのサービス精神は不要としても、書く手がおのれのうちに秘めたどんな言葉の生誕にたち逢いたいのか。初めて詩を書く方であれ、何十年も詩行をつらねてきた練達であれ、毎朝、毎晩、言葉の宇宙の先触れと出逢おうとして生きるのが、詩人の存在証明ではなかろうか。

 その意味でも、ぼくにとってたしかな存在感をしめしたのが、黒崎水華さんの「瓶底に櫻の花が沈んでいる」。

 

爪は背骨を引っ掻いて猫は唸る

冷蔵庫が低い声で呻いた

言葉が多過ぎる事を嘆いた背表紙

切り刻まれた時間の音を眺めて

息絶える化石の密やかな蜜を封じる

琥珀色の液体を飲み干して

深海魚が宙を過ぎった

長い尾鰭が優雅に翻るので

白日に晒した赤い虚実が柘榴の実と成り

ベッドの下に溢れている

 

 シュルレアリスティックで細密な詩行のかさなりのうちに、実が虚と化し、虚が実と化しだす。それでも、現実の陰画がエロスの気配をともなって濃く馨るのは、詩人の言葉が観念的な戦意にとどまっていないからだろう。いちまいの桜の花びらがなんの変哲もなく瓶底に沈む。それだけの事象が、おのずと日常の現実と言語を異質に分節してゆく。詩は、詩人のこころに沈んだ桜の花びらが、外部の言語ゲームによらずとも、おのずから異質に分節してゆく力だ。

 原聡さんの無題の詩も、不思議な魅力を響かせている。散文脈だが、修辞の美も、詩語であることも追い越してゆくような、ドライで、ここちよい言葉の風が吹きすぎてゆく。あるがままの過去と今、あるがままの日常が言葉の破片となって、ただそのままに漂う。

 

何の形にもならず。意味も持たず。意志を持たず風に任せて。ライトで照らされた野球場や秋葉原。中川。古利根川。東武電車。バスの排気ガス。田舎の駅舎。尾張屋の屋上。スマートボール。チョッキを来たレコード店主。LPレコードのにおい。

 

月の光は全てを溶かして曖昧にする。水平四気筒空冷エンジン。ジョンレノン。永島慎二。バリーギブ。俺は何を話しているのだろう。誰に話しているのだろう。漢字は分解し、ひらがなは固まり、アルファベットのダンス。誰もその時にしか生きていない。

 

    強固な文脈や意味を形成せず、また、それがあざとい解体を意志しないところが、すごく、いい。力んでいないようでいて、言葉がおのずから浮揚する技倆があると思う。これから、どんなふうに詩が羽化してゆくか。期待しています。   

    発条ねりさすさんの「不臭」は、衝迫を衝迫のままに言葉に刻もうとする、瑞々しさがある。妄執すれすれにたちこめてゆく「あなた」への執着を、「くさい」という感覚から語りだす。自己と他者の隙間にひろがりはじめるへだたりと疑念を、「確かな濃霧」として詩化しようとこころみた。

 

握られた手は、励ましでなく

私を捕らえる    檻なのだ

 

くさい、くさい

どうして、悔しい

くさいから、悔しいのだ、

 

しみだらけの笑顔が

差し出された古菓子が

確かな濃霧を持って

脳内に再生されている?

 

 

くさいのだ、悔しいのだ

暗いから、逃げたいのだ

ただの死に様に  泣きたいのだ

 

    遠まわりせず、孤独な妄執を、ダイレクトに詩でつかもうとする言葉の生々しさ、ふてぶてしさ。そこに靭さを感じます。アルミ箔いちまいの薄さと軽さで表裏をあわす、生と死も。そんななけなしの捨体からしか、詩の新しいリズムや形式は生まれないのでしょうね。フレッシュなエネルギーでぐいぐい押して、書いてください。

    いつまでもくりかえしてしまって、どこにも行けない日々の時間。その凪いだ時間の水面に、言葉の釣糸をたらしてみる。海老名絢さんの「火を放つ」は、燠火のように燻りつづけ、いつか狂いだしてゆきそうな「わたし」や「未来」を、ぜんぶ燃やしてしまうことで、かえって曖昧模糊とした生に、くきやかに名前をあたえたい。そんな、不穏な欲望を表出してみせた。

 

何一つ成し遂げないまま一日が終わって、わたしという人間の不完全さをまたしても思い知らされる、それが何だっていうのと言い切れないのだから、グラデーションを怖々背負って、星が瞬き始めたら布団をかぶって何も見ないふりをする。夜の静かさの方がより怖いのです、わたししかいないまま世界と途絶してしまった日々の始まりを知らされるようで。昼間の雑踏に紛れて歩き、本を読みネットを泳いで、考えないふりは楽だけれども、考えないといけないことは山積みのままで火を放ってほしい。

 

    早計層さんの「氷結」も、すぐれたオリジナリティを感じさせる、先鋭な言葉だが、やはり、出口のない日常をループしつづけている感もある。その感覚を、現在、と名づけているような。

 

稲を振ってみっか

それか狐の香水だ

向こうで夜行バスが怠けてるかもしんない

旅人さん

ハンカチに広がる石から離れると眠くなる

狂えるさん

色あせた舌先を噛んで

水玉を口ずさむ

ああ口笛を浄化しなければ

少男が他男だ

骨が吹き飛んでる

二十分くらい

確率が成り立たない道に行き当たる

先へ木金土の写真

ばらばらのまま結ばれる父は

駅ビルの空調に浮かされた

父は氷の味がする

 

    おふたりの詩は、センスがいい。いっぽう、読んでいて途中まではすごくいいのだけれど、帰結に弱さを感じてしまう。出口のない日常が、そのままポエジーのドアを途中でとざしてしまう気がするのだ。あとの展開は、もちろん、詩人の個性にもよるけれど、ポエジーのドアをひらくためのコンセプトを見つけられるかにかかっていると思います。

   今回の選評は、出逢い、ということについても考え書いてきた。そして、詩と、あるいは、他者と、出逢うという意思をあざやかに詩化しているのが、采目つるぎさんの作品だと思う。短かいから、全行を引こう。

 

            Graphite

 

「黒い口紅、

「呼応する瞼。

「剥離まで何秒?

「多分、求めてないよね、

「意思決定のチャイム。

「沈黙を続けるマキアート、

「掌、貸して、

「舌掴むよ。

「しがみつかせて、お願い。

「---抵抗も許さないの、

「回路の接続、

「閉じないでよ、いい?

「耳鳴りをとめて。

「ここに触れて、いる、

「針より細い、

 水脈が決壊するまで、

 

    とどきそうで、とどかなそうな、ふれあえそうで、ふれあえないような。出逢いたい希求と、すれちがう安堵、別れの諦念が、ポエジーと、チャットを髣髴させるリズムによって、ぎりぎり、定像されてゆく。この詩は、他者との出逢いやコミュニケーションが回線によってつながったり、きれたりする現代性を、ある強度として、詩化しようとする。

    たしかに、ネットや仮想現実ばかりをリアルだと自己陶酔的に語る詩は、ナイーヴかつ幼稚です。それだけの詩は、現代と現実から、手痛いしっぺがえしをくらうでしょう。しかし、リアルであれアンリアルであれ、この詩人は、自己の言葉の原型的な発露を、生のままつかみとり、詩として削りだそうとしている。その率直さが産む詩語とリズムに惹かれます。いつの時代も、それが、詩と出逢う、ということ。詩を読む、書く、歓びではないでしょうか。

 佳作として、佐野豊さんの「三鷹 木曜の午後」、新人の域をとうにこえでている舟橋空兎さんの「無言の諷言」、近代詩歌論を自由詩に織りこんだ意欲作、末国正志さんの「純心」、本間由起子さんの「結婚式」を挙げておきたい。

 次回も、詩との出逢いを楽しみにしています。

 

 


 

八木幹夫評

 

推薦すべき該当作なし。

 

あえていえば、西原、珠望、麻倉、大野、澤さんの作品が何かを伝えようとしている。

ただその主張がいずれも空回り状態。澤さんの作品はこれほどの長さが必要なのかどうか。再考してほしい。

現時点では西原作品と珠作品のみが自らの表現を焦点化し得ているといえようか。

 

西原真奈美「表札」(言葉の削ぎ落とし方には洗練されたものがある。さらに研鑚を)

珠望「うらにわの木」(擬人化の表現の過剰が気になる。もっと対象を直接的に捉えること。)

麻倉潤「猫の正体」(猫の生態をもう少し観察し、詩として読める世界を創造せよ。「彼らはその実、事象の媒介役」ではまとめ過ぎです。)

大野「あふれる」(題名と内容の必然性がまったく感じられない。自分と言葉との距離をもう少し近づける努力を。)

澤 一織「夏を知らせる風が吹き抜ける頃」(長すぎる。授業中にであった無回答の少女へのシンパシーを作者がどう捉えなおしたのか。だらだらとした展開に新鮮味がない。)

 

欄外

 市川恵子「インフルエンザ」もっと簡潔さが必要。

 路瀕存「鏡を割る」奇を衒いすぎる。表現の奥行きは自らの想像力で試みよ。    

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