第6期入選作(2017.6-9月)

日本現代詩人会 詩投稿作品 第6期(2017年7-9月)

厳正なる選考の結果、入選作は以下のように決定致しました。

【選考結果】

杉本真維子選:
橘麻巳子「墓標たち」
風海零音「ブランコと喇叭」
珠望「ムクドリ」
サンベック「与える人」
松尾到「小さい人」

 

石田瑞穂選:
采目つるぎ「Dog Tag」
橘麻巳子「水出し鬼茶」
大野直子「聞き耳」
篠崎美江子「口上」
矢田和啓「この悲劇を二度も繰り返すように」

 

八木幹夫選:
【特選】
田中修子「火ぶくれのハクチョウ」
橘麻巳子「墓標たち」
【入選】
長門拓也「廃駅の午睡」
伊沢「いつからか」
鎌田伸弘「夏子の時間 」

(投稿数281 投稿者194/敬称略・順不同)


墓標たち――橘 麻巳子 巣のように囲われているだけではなくて
藪に入る道は横にも拡がり
後ろから
燃える匂いがする

 

煙吹く方角に顔寄せて
幾重にもなぎ倒しながら
脚脚に触れ 傷つける草
緑色の腕捲り上げ
生え出るものを手折っていくのを
覗く 囲いの向こうの墓標
見える部分を繋げて読んだ
「鳥は 買取中」

 

すぐでにも飛ぶ鳥
擦れる羽ばたき 終わりまで聞こえなくなり
波動に乗れなかった母音は重く
支えなくした摩擦の音は崩れはじめて
危険伝えることができない
顎ははずれそうに
二つ
毟った羽の影にも似る

 

自身の重みでずり落ちる声に
試され 配置する
一段ずつの台座を下りては
地面に向かって突き刺さる
どれにも 時を逆らう匂いが付いて
どれを探しに土地の間をすすんできたのか

 

円い骨なら覚えている
覚えていない ほかのところは
囲いの縁だけ踏んで待つ
           あるいは、
という領域に残りの骨を埋めてきた
止まる腐食
静まる変動

 

重みとは引いていく力
落ちたところで引き合って戻し
ふたつはひとつに
ひとつから呆となる視界
かたちで捉えられない目の奥から
目が綴る
いる、
   三羽、いる
息を均して並ばれる
そのあいだにも もう三羽
ばらける素振りを拾う腕、あまり新鮮じゃなかった

 

燃える匂いもまだしたが
摑んで
逃げた

 

持ち去る者を追う
囲われるなか囚われる脚
かかとから割れ 骨崩れ、腕退いて
三羽と三羽とわたしの影が
上半身だけ落ちていく
思い出そうとしなくてもいい

 

ブランコと喇叭――風海零音

 

青い空を睨みつけて手を広げて、
友達を飲み込んだ海に涙して、
ぷあら、ぷあら、と、
古びた喇叭を吹き鳴らそう。

 

白魚の眼から逃れて空を飛ぼう!
ふうわり、ふうわり浮かんでは沈むような………昼の夢。

 

雪がいつの間にか降っていて、
峠の小道も見えなくなった。

 

庭のブランコも凍りついて、動かなくなった。
ゆうら、ゆうら、ゆうら、ゆ。
いつかはきっと大人になる。

 

ゆうら、ゆうら、ゆうら、ゆ。

 

いつかはきっと、忘れてしまう。

 

ムクドリ――珠望

 

電線の上に並んで
二羽は話しこんでいた
後ろ姿はずいぶん真剣で
尾羽が左右に振れていた
多分あそこのあの木の葉の上で
今時分黄アゲハが羽化を始めたからで
透明なさやからするけるたばかりで
翅は器用にしわくちゃだからだ
かよわい白い腹にやさしく光がともる
あれほどあたたかくて
びくびくするばかりで
くわえるとひりひりするものはない
きがついたらないてたろう
ほんきでせつないものだろう
あまいのに
うまいのに
ほんとうにつらかった

 

雨雑じりの風が
一足先を行く
傘を持たず出かける

 

与える人――サンベック

 

先日、母方のおばあちゃんが亡くなりまして
しばらく会ってないのもあるせいか
割と淡々と受け止めていたのですが、
心が少しずつ、つらいよう、といってきたので
なぜだろうと思い、考えてみましたら
私が小さかった頃になるのですが
どこかブルドックに似た、
体はちっちゃいけど頑固そうな顔の彼女が
これ高いやつだから熱いうちにお食べ、と
自分は一口も食べないで
しきりにお肉を焼いてくれてたのをふと思い出しまして、
それから、もう少し振り返ってみると、
バス代がもったいないからといつも歩いてて、
それなのに我が家に来るときはいつも
どこかで安く手に入れた米や野菜の入った重い荷物を
孫と娘にあげようと両手に引っさげてたのを思い出しまして、
母がそんなのは近くで買えばいいから
わざわざ苦労して持ってこなくていいよと言っても
ちょっとでも安く済めばそれでいいの、と
ぜんぜん聞かなかったこと、
子供の私が生意気なことを言っても
笑って頷いていてくれていたこと、
親戚に自慢の孫だと私を褒めてくれていたこと、
母が、これ生活の足しに使って、と
封筒を渡そうとしたら突き返しながら
親というのは子にあげるもんであって
子からもらうもんじゃないと怒って
ブルドックみたいにむっとしていたのを思い出しまして
そしたらなんだか涙が出まして
なんだかとめどなく涙が溢れまして
おばあちゃん、忘れててごめんよ、ごめんよ、
でも覚えていたよ、会いに行かなくてごめんよ、と
心の中で何度も叫びました

 

小さい人――松尾到

 

ひそやかに壁に貼られた
ポスターの端が少しめくれて
陰に潜む
小さな人
こちらへ
近寄ってらっしゃい
畳の縁に沿って
にじり寄ってらっしゃい
じわりと
その長い
指に
乾いた私の背中を
吸わせてみせて
私は声を出さずに泣く
みんなから
少うしずつはがれていく
額を傾けて うつむけば
いいかしら
左手の薬指の腹に
鉛筆の黒い細い芯を打てば
いいかしら
この髪の
裏側を
こすれる音を残して
少うし
掻いて
いいかしら
吸い口から水をひとくち
パンを手でひときれ
こぼれても拭かなくていい
汚れてもそのままの形で
口元に小さく積んで
シーツは水でぬらしといて
それだけが私の証だから
私に届くだけの
指を細く長く
壁に伸ばして
魚のように背を丸め
目は瞬きを失って
嘆きの
壁に貼られた
青い唇の端が
少し剥がれて
小さな人が
けたたましく笑った

 

Dog Tag――采目つるぎ

 

もとの意味さえわすれた符号を
きみと僕とであいことばに据えて

 

「……肉の爛れる音がする、
「そういうのだけ聡いんだから。
「んっ、また空が分解しちゃうかも、
「そういうの嫌うと思うな、彼女。
「知らないよ。どうせこの心なんか、
「しーっ。……硬いね、この鍵、
「呟いてよ、
 “The world won’t listen”って。

 

からからと、ざわ
識別不能のしるしとからだ
閉じ箱になればいい
そして互いにしがみつきながら堕ちればいい

 

「胸の文字が消えかかってる、
「発酵した体液。
「こぼさないでね、
「いつ食べてもらえるかなぁ、
「愛の実験だよねこれって。
「首を探す猫のような、

 

コンプリート。
コンプリート。
僕らは夏に冬眠する、
透過する、残響、

 

「海辺の駅まで逃げよう、
「まどろむ間も無く手を引かれて。
「流れるままに、
「卵を産み落としてゆく、
「あたりに敷きつめた、花、
「それはふたりしか知らないはずなの。

 

遠いよ、
遠いよ、
満たされるなら叫ばずにいたのに、

 

「首絞めてるのはどっちさ、
「離陸する前に気づいてほしかったな、
「手札はもうひとつしか残ってないよ。
 だから、さよなら。
「宿世こそありけめ。なんて、

 

からからと、ざわめく
識別不能のしるしとからだ
同じ名前の僕らは、
てをとりあって、りんねする、

 

水出し鬼茶――橘 麻巳子
中心に爪立てて下ろす片方を
貰う 弧線越しの発話
目を目で受けつづけるのが非礼
咎める手 伸び
生い茂る距離、発話は重なり
絡まり昇る 青天井
見上げる首に爪を下ろせば
途切れる反復、のちの発話は
方々白抜き
発する人は
空いた位置へと先回り
捲るわ、毟るわ、首の皮
一枚は背もたれに掛け
もう一枚は鬼のもの
貰った 皮 枯れなくても
溶けていく氷
茂る天井に咲きかけの花、見つけたりする

 

聞き耳――大野直子

 

LEDの電球の中に閉じ込められている
ちぢれた約束は
何千時間何万時間ものあいだ
神経を張りつめて
点り続けなければならないということ
異国の灯りよ
わたしは照らされるのでも 癒されるのでもなく
ただ聞き耳を立てる
おまえの小さな振動に
ささやきに
そしてじっと腰掛けるのだ
自分の知らない横顔となるまで

 

すれちがいざま
伝言でもするかのように低く飛んでいく鳩
その先の川沿いの木立には
首を折り曲げてフルートを吹く青年がいて
木陰は深い
冷たい銀色の管から紡ぎ出されるのは
木管のぬくもり
予想をあっさりとくつがえす
曲がった首
わたしは裏切られるのでも 期待するのでもなく
ただ聞き耳を立てる
川音にかき消されるために生み出される
ひたむきな音色に
わたしも首をかしげては
音を集める
息を拾う
透ける鼓膜を震わせて

 

カリッ
マスカットの果肉深くに埋め込まれた種
かすかな音が連れてきた
思わぬ苦みに
ほほえむ

口上――篠﨑美江子

口が聞けない時は
風の隣で 好物を食べればいい

 

部屋から出られない時は
時間のたすきを貰い 寝て起きてすればいい

 

心が息をしない時は
カモメと砂浜で 沢山の足跡を付ければいい

 

言葉が体に刺さった時は
涙の湖に 浮き輪を付けて浮かぼう

 

明日が見えない時は
はぐれた雀と 寝床を作ればいい

 

食物が飲み込めない時は
ごみ箱をひっくり返したような雪が降る町に行こう

 

死んでしまいたい時は
糸を巻いて ミノムシのような小指をこさえよう

 

一世一代の朝が来た時は
親も友も一人も起こさず 旅立たなければならない

 

愛する人が死んだ時は
新聞広告の裏に 沢山の文字を書けばいい

 

この悲劇を二度も繰り返すように――矢田和啓

 

🦅🕊🐓🐦🐤🐔🦆🦃🦉🐧🐥🐣🥚

 

bird、鳥、たちよ、裂けよ、鳩、たちよ、叫べよ、鷲たちが駆け下りてくる階段、卵が弾んで下まで落ちてくる、スポンジ状の足場を、フランシス・ポンジュの詩のように柔らかく優しく、道しるべは明るい、火は灯る、おお、おお、前を向け、人よ、お前よ、向け、駈けろ、恥丘を、地球を、蹴飛ばしてわさび入り醤油を塗った、スノーボールアース、に、ぶつかって、地鳴りの音を立てて破壊する、巨大な卵が宇宙から、《2001年宇宙の旅》からやってくる。

 

一人芝居は猿芝居。東芝。そして隣の芝は青く、植え付けられた毛根のように枯れている。つまり、その譬喩《隣の芝》には意味がなかったのだ……。私がその毛を嘴で引き抜くと、痛みを生じていく。大地がひび割れ、復活のときがくるような痛みを。なぜなら、その毛は陰毛だからである。一人の少年がいう。「あそこから、毛を取ってきてよ!」私は返す。「僕が僕であった頃から、そこにずっと毛は生えていた。まるで映画のように、風景は過ぎ行く。細長い階段を抜けて、立方体の形をした墓所に行く。墓のそばにはこう刻まれている。《アーノルド・シェーンベルク ここに眠る》そして僕は気づくんだ、これが現実の世界ではないことに。現実の世界は、もっと複雑で、それでいて単純で、理解可能な領域を超えでているのだから」

 

🦅「わしらはいったい何をしたというんだ? カラスミを目に塗られたときのような痛みが身体中を駆け巡るではないか! これではホメロスも誉め殺しでは。」
🕊「痛みが整列するように、痛みをそっと叩いてみなさい、見えない手で。」
🐓「わたしたち鳥には手はないから、そっと翼でなぞるのよ。すると翼に傷が生まれる。なぜなら、わたしたちがなぞったのは、あのとんがった墓石だから。」
🐦「鳥よ、取り寄せよ、眠れ、を。」
🐤「この中に裏切り者が紛れ込んでいる!」
🐔「五月蝿いわね、とあなたが囀る度に、五月の蝿が真緑色になってあたりの街を埋め尽くす。」
🦆「わたし、鴨のコンフィが食べたいわ。」
🦃「ナルニア国から中華鍋を運んできて、炒め物をしないとね。材料は人参。キャベツ。肉を少々、夏場は腐るから沢山は置けない。」
🦉「見えないものを見る我々の目は、その代わりにガラスを見ることができない」
🐧「爆風!」
🐥「もののはじまりの形をしているのに、何もなく、果てしなく続くものの最初にあるもの、それは?」
🐣「もののはじまりの形、それは卵の形だ。果てしなく続くもの、それは数だ。そしてその最初にあるもの、それはな、0《ゼロ》だ*」
🥚「もののはじまりの形は、卵ではなく鳥ではないのか? 卵ではなく鳥が先ではないのか? それとも卵が先なのか?」

 

トイレの水を飲むように給水器に溜まった薄汚れたまずい水を喰らう鳥たちよ。お前たちの飼い主はもうすでにアーノルド・シェーンベルクと同じ場所にいるのだということに気づくべきではないか? しかし気づいたとしても自殺しないのがお前たち鳥の使命なのだということを、ひしひしと痛感せずにはいられない。

 

次の作品のタイトルは『激辛チューハイ』だ。よろしく。
なぜだ?
そして誰に?
謎が謎を呼び、嵐を巻き込む。星たちのように散らばっている霧の粒子を、巻き込んでいく。草山の中にはM?rchenの花が、誰かへのメッセージのように咲いている。その花びらさえ引き千切り、鳥たちが飛び去っていく。

 

🥚🐣🐥🐧🦉🦃🦆🐔🐤🐦🐓🕊🦅

 

*岡田淳『二分間の冒険』という本の中では、竜の魔法によって「なぜ」という言葉をいってはならないことになっている。

火ぶくれのハクチョウ――田中修子

 

わたしを壊してとお願いすると
あなたはもうとっくに壊れている、と耳を噛むのね

 

ひもじくてひざこぞうのカサブタを
食べた記憶をくちづけたら
眉をしかめて吐き出さないで
わたしそのものを

 

おばちゃんと編んだイラクサをおぼえている
わたしたちほんとうは
きっと尊いものなんだから
はやくチョッキを着て
ハクチョウに変身してここから逃げ出そうね
いっしょうけんめい、火ぶくれになった手

 

わたしはハクチョウになる前に
悪いお母さんに飢え死にさせられ
はらぺこりんの幽鬼になっちゃった

 

おばあちゃんはひかる湖のうえ、飛び立てたわ
白いお骨はただのあしあと

 

わたしがふれたものは
すべて青白く燃え上がって食べられないの
おなかへった
とかなしむふりをすると

 

あなたはただ全身を火ぶくれにおかされて
完治しないあわれな子どもだ

 

 

わたしを目覚めさせようとする男たちが
気色わるく胸元をまさぐる
泣き笑いしながら
カサブタを食むように
舌をのみこんでいった

 

廃駅の午睡――長門拓也 夏の光はアスファルトの上にむせかえり
田舎の廃駅では時が止まっている
ぼくはもはやぼくであることを忘れ
いっさいの乙女の夢たちから遠ざかる

 

奪われた世界のひとつへと
降って行くこころのあどけない意志は
青春と名づけるにはあまりに痛ましく
拭いきれない汗が真昼の影にぽたぽたと落ちる

 

ある意味でそれは安らぎであるし
またある意味では死の静謐でもある
世界は思ったよりも病んではいないし
思ったより強固なものでもない

 

僕は膨大な無為をもう少し過ごそう
蜘蛛の巣の咲く廃駅のベンチでしばし寝転ぼう
苦しみに耐えることに慣れすぎた脳髄に
付け加えるべきものが何なのかも知らないまま

いつからか――伊沢

いつからか
傘の差し方を忘れてしまった
いつからか
靴の履き方を忘れてしまった
3時の各駅電車に乗って外を眺めていると
忘れていた君のことを思い出した
君と一緒に流行りの歌を歌ったこと
君と一緒に無人のバスに乗ったこと
でもすぐに忘れてしまった

 

いつからか
好き嫌いを忘れてしまった
いつからか
呼吸をしていることを忘れてしまった
水筒のお茶はぬるくなっていて
忘れていた君のことを思い出した
君と一緒に気が抜けたソーダを飲んだこと
君と一緒に雨宿りをしたこと
でもすぐに忘れてしまった

 

いつからか
僕はどうも賢くなってしまったらしい

 

夏子の時間――鎌田伸弘

犬の舌が真夏の暑さにだらりとのびるように夏は時間ものびるよね
ぼくにそういったのは タンクトップ姿のきみ
夏子

 

それって陽がながくなるってこと?
違うわ 時間そのものが伸びるのよ
そのもの?
ながくなったり みじかくなったり するだけでなく 時間は
のびたり ちぢんだり 伸縮するもの

 

――いつのころからか
なつのじかんが はるなつあきふゆのなかで
いちばんゆっくりと かんじられるようになったの
ちいさいころからそれが すこしずつたしかなものになって
おとなのいまでははっきりわかるわ
しかんして くたっとなって
だらりと いぬのしたになって
ゆっくり じっくり じりじり ちりちり もえる
なつこの
なつは
じか




る――
ゆっくり
ぢっくり
ぢりぢり
ちりちり
燃える
夏子
とろける
ただれる
だらける
ほとびる
夏子
ほとばしれ!

 

そうして夏にのびすぎた時間をとり戻すために冬の時間は疾駆する
ように縮む縮む地球の裏がわまでもぼくを置き去りにしても生き急
ぐようにあるいは死に急ぐように疾駆疾駆するまるで冬将軍の夏子
縮む縮む縮む夏子吼えろ燃えろ!

 

きみにとって秋は助走でしかなかった
きみにとって春は失速でしかなかった

 

春夏秋冬を温度でとらえるのではない
春夏秋冬を色彩でとらえるのではない
春夏秋冬を情緒でとらえるのではない
春夏秋冬は肉体でとらえる そのこころみなんだ

 

いまぼくは秋に立つ つぎに立つのは
きっと春だろう きみのまえでは ぼくはつねに
ふたつの季節にしか立てない だけど そのふたつの大地から
右手に泉のペンを握り締め
左の眼にカメラのレンズを嵌め込んで
永わにきみを描写する
常わにきみを照射する
とわに

 


【選評】

現代詩人会投稿欄選評 2017.7~9 杉本真維子

橘麻巳子「墓標たち」
 文字や行の間が意味を生んでいる、とたしかに思える。たとえば、「鳥は 買取中」の一文字アキ、「あるいは、/という領域に残りの骨を埋めてきた」の文字のアケと改行。「見える部分を繋げて読」む行為こそ、原始的な「詩人」のすがたではないだろうか。前後、左右、くまなく視界を回転させ、身体を自在に操りながら、そして細かな傷を負いながら、死者の抜け殻を辿る。ほぼ完成された書き手かもしれない。
風海零音「ブランコと喇叭」
 童謡のような微かな不気味さのなかで、空の青さが強烈に詩の屋根を覆っている。「ゆうら、ゆうら、ゆ」の「ゆ」という止めが、生身の命の危うさと心もとなさをうたっている。「いつかはきっと、忘れてしまう。」と、私も子どものころ、不安に怯えながら予感したな、と、あのときの「今」がよみがえった。同時にこの一行は、大人になるとむしろ希望に見えるかもしれず、短い一篇に膨大な時間を湛えている。どんどん書いてほしい。
珠望「ムクドリ」
 話しこむ二羽のムクドリから始まり、黄アゲハの話になり、10行目の「あれほどあたたかくて」からはムクドリがくわえた黄アゲハの話だとわかるが、「きがついたらないていたろう」からは話の延長でありつつ、まったく別の話者の声になっている(その声とは「傘を持たず出かける」ひとのものかもしれない)。一連のなかで斜めのグラデーションを描くような変容がたくみだと思った。
サンベック「与える人」
 散文形式で書かれたこの作品は、やはり散文なのだろうか。悩みながらも入選にした理由は、「思い出しまして」などの言い回しでわかるように、ひとり語りではないところが気になったから。話しかけている相手が読み手のあなたなのだ!と、間近でいわれているような距離の詰め方がある。一見、思うままに書いているようでいて、じつは「おばあちゃん」という一人の人間を、与える人として平面的にとりだし、それ以外をばっさりと切り落としている。これは詩のやり方ではないかと思う。作品から受ける涙とは平面性の照り返しかもしれないとさえ思った。ほか2篇の行わけ詩にも注目した。
松尾到「小さい人」
 なにが書かれているのか最後までわからない。もっといえば、わからないように書かれている。傍に高齢のだれかがいるのかもしれない、という具体性を微かに露出しながらも、それ以上は見ず知らずの読者が踏み込めないように柵が立てられている。言葉で触れたくないほどたいせつなものは、結果的に、隠しながら書くことになるのだろう。推敲の余地はあるかもしれないが、私はこういう書き方を支持したい。
 選外から何篇か。とみやまゆき「雨女と晴れ女」。雨女と晴れ女は、ここでは比喩ではなく、生身の人間として書かれようとしている。そこに新しい意味が微かに浮きでている。最終行「晴れの日が/平均点というこの世界で」が響いた。陽「母」は、感情と言葉にズレを感じさせない。考えぬいてきたテーマだからこそできるのかもしれないが、正直に言葉を拾い出したこの一篇のなかの決意を応援したい。ほか2篇はまだまだ推敲が必要。
 若いかたがたくさん投稿されてきている。入選はたしかに狭き門だが、結果に一喜一憂せず、投稿してきてほしい。それから、推敲中に複数ヴァージョンできたと思われる同作品をそのまま投稿するひとがいるが、一つに絞ってから投稿すべきだ。最初の読者である自分の判断を信じるという「訓練」は、難しいけれど、必ず詩作の力に反映されてくると思う。


観念ではなく物 石田 瑞穂

 

 五年ほどまえ、取材仕事で渡ったソウルから帰国して間もなかったと思う。異邦とよぶにはいまや距離的にも、文化・歴史的にも近接しすぎている他国の空気が、体内に名残っていたのだろうか。
 それとも、日本の初秋の風が、韓国の風に似ていたから。
 突然、無性に韓国の文藝にふれたくなって、神保町のアスファルトのうえであゆみを止め、そのまま、正午の古書店の子闇に足を踏みいれたのだった。
 あのとき、どんな本を、無愛想な店主がさも買って当然という態度で紙袋につつんでくれたのか。もう、憶えていない。
 ただ、一冊の詩集を除いて。

かくも静かな臨終
いま ここに参じぬ人は信じがたいであろう
この世のすべてが祈りを捧げる時間を

血のような染料
神霊としか言いようのない神秘的染料で
山脈や村落 また
裸木の森を彩る夕映え 無の壮麗

           (キム・ナムジョ「冬の落日」より)

 詩人、キム・ナムジョ氏の邦訳詩集『神のランプ』(花神社)におさめられている。日本では、寡聞にして知らずにいた、この韓国の女性詩人の一冊の詩集を、ぼくはこの五年間、折にふれ、文字通り灯火のように大切に活字を両掌で覆い読んできたのだった。
 キムさんには、先日、招聘された「平昌 韓中日詩人祭二〇一七」でお会いすることができた。まったく予想しなかった、望外の出逢いだった。こうした比喩表現はよくないとわかっていても、ぼくはキムさんを、エミリー・ディキンソンの面影にかさねてしまう。
 忌憚なくいえば、さきにひいた詩作品に、詩通をうならせるような〈新しい〉文彩や前衛性はない。しかし、そういった文彩やテクニックをこえて、絶対にゆるがない気韻が全編をつらぬき、はりつめているのがわかる。詩集の奥扉ちかくにつつましく記された略歴や、詩作品から、この女性詩人が敬虔なクリスチャンであること。自作解説からも、キリスト教信仰に由来する人類普遍の愛、神の愛が、彼女の詩の根底となっていることがうかがえる。
 ただ、ぼくがいまも魅せられているのは、詩作品がおびる宗教性や平和思想ではない。もしかすると、外来の普遍性や一般概念を根底からくつがえしてしまうモノ。おそらくは信仰によってすら癒されない、詩人が詩行の狭間に白く秘めつづける、存在にともなう孤絶のようなモノ、である。それは、あたかも鋭く、硬ばったモノで、ときに重たく、温かい。言語化はきわめて困難だが、稀に、「これ」や「それ」としかいいようのない感触をポエジーが送り届けてくれる。田村隆一ではないけれど、「おれは〈物〉だからロゴスはいらない」(「所有権」)としかいいようのない詩の箱舟で。
 思えば、詩とは不思議な言語存在だ。ぼくが長年おいかけているアメリカ・モダニスム詩の巨人、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズは長編詩『パターソン』一巻で、ポエジーとは「観念ではなく物」(No ideas but in things)と喝破している。詩的言語行為は命名することもされることからも翻り、ある種の翻訳によってその存在をわずかに報せてくれる。けれど、その核種には明晰なモノを宿している、と、ぼくは考えている。それは原理や思想というより、個物にちかいなにかであると、予感してもいる。だからこそ、ウィリアムズのような詩人に親しみを懐いてもいるのだろう。
 観念だけの詩は知的エンターテイメントではあっても、リアルと絶縁してしまい、戯論と化す。戯論は消費され早々に忘却される。おなじく、現実や経験を原理として排他的に唱える詩は、独善と固着に陥らざるをえない。ならば、もちろん、じゃあ、個物ってなんだ、モノってなんだ、という撞着も生じよう。この議論については、充全とはいかないかもしれないが、次稿でたちもどりたい。
 詩を詩へと生成させるハードコア、とは、なにか。
 今回、二期連続で入選した、采目つるぎさんの「Dog Tag」。前期は、投稿篇数もすくなかったけれど、今期はペンがのっているみたいだ。詩の前半部分をひいてみる。

もとの意味さえわすれた符号を
きみと僕とであいことばに据えて

「……肉の爛れる音がする、
「そういうのだけ聡いんだから。
「んっ、また空が分解しちゃうかも、
「そういうの嫌うと思うな、彼女。
「知らないよ。どうせこの心なんか、
「しーっ。……硬いね、この鍵、
「呟いてよ、
 “The world won’t listen”って。

からからと、ざわめく
識別不能のしるしとからだ
閉じ箱になればいい
そして互いにしがみつきながら堕ちればいい

 自己と他者との差異化を困難にし、人も物も、のっぺりとした記号として制御し流通させる超高度消費システム、日本に生きる人間の姿が浮きあがってくる。「空が分解」するほど、世界は危機にあり、コミュニケーションも多彩に分裂しているのだが、それでもどこか、狭隘で瑣末、かつナイーヴな「あいことば」で人同士はツナガルことができる。そう錯覚させてやまないデジタル情報処理社会の鎖につながれた犬たちが、ぼくらだ、ということなのかもしれない。
 ドッグタグは、軍隊が支給するネックレス型の金属製認識票。今作は、暗号化されたエロスを対話詩へと織りあげた作品で、わかりやすい。技術的にも進歩された。でも、前作のほうが、いまを生きる私が他者へと、あるかなきかの対話/通話可能性をもとめて、ひりひりするような跳躍をしていた気がします。
 その意味でいうと、不穏な書き手、橘麻巳子さんの「水出し鬼茶」は、希薄化するがゆえに鬼気にまで募る生への希求を、そのまま見事に抽象化した作品。短い詩なので全行をひこう。

   水出し鬼茶
      
中心に爪立てて下ろす片方を
貰う 弧線越しの発話
目を目で受けつづけるのが非礼
咎める手 伸び
生い茂る距離、発話は重なり
絡まり昇る 青天井
見上げる首に爪を下ろせば
途切れる反復、のちの発話は
方々白抜き
発する人は
空いた位置へと先回り
捲るわ、毟るわ、首の皮
一枚は背もたれに掛け
もう一枚は鬼のもの
貰った 皮 枯れなくても
溶けていく氷
茂る天井に咲きかけの花、見つけたりする

 

 生活の肌理と抽象が反響し、生理的な言葉は、理知と非知のはざまではりつめてゆく。より難解に挑みながら、読者を魅きつける言葉のさしだし方、作品の緊張感は、申し分ありません。自己の詩を確立しつつあります。でも、一方で、日本の現代詩に特有の、近視眼的な言葉の世界からでていない気もするのです。
 大野直子さんの「聞き耳」は、スイスから書き送られた。采目さんや橘さんのように、こちらに挑みかかるような詩ではないけれど。世界と自己が、しだいにひろまりを見せ、深々抱擁しあうポエジーが魅力的でした。

 

LEDの電球の中に閉じ込められている
ちぢれた約束は
何千時間何万時間ものあいだ
神経を張りつめて
点り続けなければならないということ
異国の灯りよ
わたしは照らされるのでも 癒されるのでもなく
ただ聞き耳を立てる
おまえの小さな振動に
ささやきに
そしてじっと腰掛けるのだ
自分の知らない横顔となるまで

 

 とくに、右にひいた前半部分は、言葉が静けさそのものになってゆく凄さがあって。惜しむらくは、そこから先が予定調和におちいりがちだったこと。安定した鋳型をつき毀すからこそ、かえって詩はより深い次元を獲得できるのだと思う。最終連の、話者がぶどうの種をかりりと噛みつぶすと、苦味のみならず、あの種子特有の繊細な辛味が口内にちくちくするのを連想させるあたり。巧みなのだけれど、人生とはかくありき、という型が透け見えてしまう。
 詩は言葉の無意識のなかに意識としてはたらく鋳型をもっている。それは、古来、母語のなかでつちかわれてきた集合的無意識のようなもの。本欄でも、〈恋愛〉、〈宇宙〉、〈神〉をテーマにした投稿作品がとても多い。それぞれの詩が固有の経験と感覚から初発し、どの一篇も貴い感情を秘めている。にもかかわらず、途中までは固有の輝きを放ってはいても、最後には鋳型が語りだす。予め母語にプログラムされているテンプレートのようなものが。気づかないうちに、詩のハードコアが迂回されてしまうのだ。
 その集合的無意識をすこしだけずらし、より切実な抒情にうつろうとするこころみが、篠崎美江子さんの「口上」ではなかろうか。

 

言葉が体に刺さった時は
涙の湖に 浮き輪を付けて浮かぼう

 

死んでしまいたい時は
糸を巻いて ミノムシのような小指をこさえよう

 

一世一代の朝が来た時は
親も友も一人も起こさず 旅立たなければならない

 

愛する人が死んだ時は
新聞広告の裏に 沢山の文字を書けばいい

 

 最終連の「愛する人が死んだ時」、どうして「新聞広告の裏に 沢山の文字を書けばいい」のか。その文字が詩の喩えだという解釈は凡庸だ。なぜ新聞広告の裏なのかを即物に問えば、詩人本人にも正答はないだろう。解答が存在できないからこそ、秘められた切実な想いが、意味や鋳型を毀ち、抒情としか指差せないモノへ変容してゆく。
 抒情は、言葉ですらない。
 さいごは、サブカルチャー的感性と現代詩を架橋するかのような、矢田和啓さんの「この悲劇を二度も繰り返すように」

 

bird、鳥、たちよ、裂けよ、鳩、たちよ、叫べよ、鷲たちが駆け下りてくる階段、卵が弾んで下まで落ちてくる、スポンジ状の足場を、フランシス・ポンジュの詩のように柔らかく優しく、道しるべは明るい、火は灯る、おお、おお、前を向け、人よ、お前よ、向け、駈けろ、恥丘を、地球を、蹴飛ばしてわさび入り醤油を塗った、スノーボールアース、に、ぶつかって、地鳴りの音を立てて破壊する、巨大な卵が宇宙から、《2001年宇宙の旅》からやってくる。

 

一人芝居は猿芝居。東芝。そして隣の芝は青く、植え付けられた毛根のように枯れている。つまり、その譬喩《隣の芝》には意味がなかったのだ……。私がその毛を嘴で引き抜くと、痛みを生じていく。大地がひび割れ、復活のときがくるような痛みを。なぜなら、その毛は陰毛だからである。一人の少年がいう。「あそこから、毛を取ってきてよ!」私は返す。「僕が僕であった頃から、そこにずっと毛は生えていた。まるで映画のように、風景は過ぎ行く。細長い階段を抜けて、立方体の形をした墓所に行く。墓のそばにはこう刻まれている。《アーノルド・シェーンベルク ここに眠る》そして僕は気づくんだ、これが現実の世界ではないことに。現実の世界は、もっと複雑で、それでいて単純で、理解可能な領域を超えでているのだから」

 

 この詩は一見、現代に薄膜をはるさまざまな言説を、横断し、渉猟しつつある。リアルとヴァーチャルリアルが衝突しては相互に浸潤し、たがいをすり減らしてゆくさまを目撃させる。ところが、現代の言説の重畳化と反復の果てから聴こえてくる声は、かなり率直な声だ。「僕が僕であった頃から」聴こえてくる喪失、とでもいおうか。
 現代では、オリジナルの劣化が、「わたし」や「ぼく」の劣化をもひきおこす。矢田さんの詩の複雑にかまえて率直なところ、もしくは率直とその劣化を演出するあたり、いまの感性を表現しようとする野心的な作品だと思う。ただ、ぼくはこの感性の先を見てみたい。近年の詩の潮流は、かつての詩誌『櫂』、大岡信や谷川俊太郎が好んだ「感受性の祝祭」の再現みたいだ。いまの感性の先にどんなドアがひらかれてゆくのか。他者へと、世界へと。
 今期はほかに、田中修子さん、沢木さん、みいとかろさん、今井豊さん、あおい満月さん、楊師子さんらの作品が目をひいた。今期の投稿は次回でさいごだが、ぜひ、挑んでいただきたい。


現代詩人会後期選考作品7月1日~ 選者 八木幹夫

特選・田中修子
評 :
生い立ちの向こうに存在の不安が見え隠れする。「あなた」「おばちゃん」「悪いお母さん」「おばあちゃん」「男たち」が「わたし」に不安定な揺らぎをもたらす。作者には正確に世界をとらえる直感のようなものがあって、論理でとらえられない痛みと痛痒感が不思議な文体に表出している。ハクチョウに変身しきれないおのれ、ひぶくれでできたかさぶたを食べる、この存在とは何なのか。自虐とエロス。なまの、自身の置かれている現実を仮構的に表現するとはこういうことなのか。表現の豊かさを感じた。とても魅力的な作品であり、成長が期待される。

「火ぶくれのハクチョウ」  田中修子

わたしを壊してとお願いすると
あなたはもうとっくに壊れている、と耳を噛むのね

ひもじくてひざこぞうのカサブタを
食べた記憶をくちづけたら
眉をしかめて吐き出さないで
わたしそのものを

おばちゃんと編んだイラクサをおぼえている
わたしたちほんとうは
きっと尊いものなんだから
はやくチョッキを着て
ハクチョウに変身してここから逃げ出そうね
いっしょうけんめい、火ぶくれになった手

わたしはハクチョウになる前に
悪いお母さんに飢え死にさせられ
はらぺこりんの幽鬼になっちゃった

おばあちゃんはひかる湖のうえ、飛び立てたわ
白いお骨はただのあしあと

わたしがふれたものは
すべて青白く燃え上がって食べられないの
おなかへった
とかなしむふりをすると

あなたはただ全身を火ぶくれにおかされて
完治しないあわれな子どもだ

わたしを目覚めさせようとする男たちが
気色わるく胸元をまさぐる
泣き笑いしながら
カサブタを食むように
舌をのみこんでいった

特選・橘麻巳子
評 : 
この作品を読むと「意味」の解読への意識が激しく起こるが、実は作者にとっては言葉が何を意味するかはあまり重要ではないのかもしれない。作者は平然と次の空間と時間へと移動してしまうからだ。意味が対象と繋がり過ぎることを避けている。例えば「かたちで捉えられない目の奥から/目が綴る/ いる、/ 三羽、いる/息を均して並ばれる/そのあいだにも もう三羽/ばらける素振りを拾う腕、あまり新鮮じゃなかった」のフレーズが読者には気になって仕方がない。従来の常識的な文脈から離れた宇宙が見えかかっている。興味深い作品だ。

墓標たち  橘 麻巳子
                            
巣のように囲われているだけではなくて
藪に入る道は横にも拡がり
後ろから
燃える匂いがする

煙吹く方角に顔寄せて
幾重にもなぎ倒しながら
脚脚に触れ 傷つける草
緑色の腕捲り上げ
生え出るものを手折っていくのを
覗く 囲いの向こうの墓標
見える部分を繋げて読んだ
「鳥は 買取中」

すぐでにも飛ぶ鳥
擦れる羽ばたき 終わりまで聞こえなくなり
波動に乗れなかった母音は重く
支えなくした摩擦の音は崩れはじめて
危険伝えることができない
顎ははずれそうに
二つ
毟った羽の影にも似る

自身の重みでずり落ちる声に
試され 配置する
一段ずつの台座を下りては
地面に向かって突き刺さる 
どれにも 時を逆らう匂いが付いて 
どれを探しに土地の間をすすんできたのか

円い骨なら覚えている
覚えていない ほかのところは
囲いの縁だけ踏んで待つ
           あるいは、
という領域に残りの骨を埋めてきた
止まる腐食
静まる変動

重みとは引いていく力
落ちたところで引き合って戻し
ふたつはひとつに
ひとつから呆となる視界
かたちで捉えられない目の奥から
目が綴る
いる、
   三羽、いる
息を均して並ばれる 
そのあいだにも もう三羽
ばらける素振りを拾う腕、あまり新鮮じゃなかった

燃える匂いもまだしたが
摑んで
逃げた

持ち去る者を追う
囲われるなか囚われる脚
かかとから割れ 骨崩れ、腕退いて
三羽と三羽とわたしの影が
上半身だけ落ちていく
思い出そうとしなくてもいい

入選・長門拓也
評 :
良くなる可能性を孕んだ作品だ。「田舎の廃駅では時が止まっている」というフレーズに魅かれた。しかし、よく見るとそれからあとの連では理屈が滔々と述べられているに過ぎない。「蜘蛛の巣の咲く廃駅のベンチ」と表現しているが、理屈を減らし、素描の中から浮き上がるものを期待したい。詩は理屈をいう場ではない。

廃駅の午睡  長門拓也

夏の光はアスファルトの上にむせかえり
田舎の廃駅では時が止まっている
ぼくはもはやぼくであることを忘れ
いっさいの乙女の夢たちから遠ざかる

奪われた世界のひとつへと
降って行くこころのあどけない意志は
青春と名づけるにはあまりに痛ましく
拭いきれない汗が真昼の影にぽたぽたと落ちる

ある意味でそれは安らぎであるし
またある意味では死の静謐でもある
世界は思ったよりも病んではいないし
思ったより強固なものでもない

僕は膨大な無為をもう少し過ごそう
蜘蛛の巣の咲く廃駅のベンチでしばし寝転ぼう
苦しみに耐えることに慣れすぎた脳髄に
付け加えるべきものが何なのかも知らないまま

入選・伊沢
評 : 
忘れてしまったもの、傘のさし方、靴の履き方、息の仕方等。しかし忘れていたはずの「君のこと」は思い出す。でもすぐに忘れる。「いつからか/僕はどうも賢くなってしまったらしい」この落差が面白い。表現が失われたものへの無償の行為だということを示す作品だ。

いつからか  伊沢

いつからか
傘の差し方を忘れてしまった
いつからか
靴の履き方を忘れてしまった
3時の各駅電車に乗って外を眺めていると
忘れていた君のことを思い出した
君と一緒に流行りの歌を歌ったこと
君と一緒に無人のバスに乗ったこと
でもすぐに忘れてしまった

いつからか
好き嫌いを忘れてしまった
いつからか
呼吸をしていることを忘れてしまった
水筒のお茶はぬるくなっていて
忘れていた君のことを思い出した
君と一緒に気が抜けたソーダを飲んだこと
君と一緒に雨宿りをしたこと
でもすぐに忘れてしまった

いつからか
僕はどうも賢くなってしまったらしい

入選・鎌田伸弘
評 :
やや冗長である。犬の舌と夏の時間の気怠さ。単純なテンポで描かれていく。
もっと簡潔に表現できるのではないか。「きみにとって秋は助走でしかなかった」以降はカットした方が良いのではないか。

夏子の時間  鎌田伸弘

犬の舌が真夏の暑さにだらりとのびるように夏は時間ものびるよね
ぼくにそういったのは タンクトップ姿のきみ
夏子

それって陽がながくなるってこと?
違うわ 時間そのものが伸びるのよ
そのもの?
ながくなったり みじかくなったり するだけでなく 時間は
のびたり ちぢんだり 伸縮するもの

――いつのころからか
なつのじかんが はるなつあきふゆのなかで
いちばんゆっくりと かんじられるようになったの
ちいさいころからそれが すこしずつたしかなものになって
おとなのいまでははっきりわかるわ
しかんして くたっとなって
だらりと いぬのしたになって
ゆっくり じっくり じりじり ちりちり もえる
なつこの
なつは
じか




る――
ゆっくり
ぢっくり
ぢりぢり
ちりちり
燃える
夏子
とろける
ただれる
だらける
ほとびる
夏子
ほとばしれ!

そうして夏にのびすぎた時間をとり戻すために冬の時間は疾駆する
ように縮む縮む地球の裏がわまでもぼくを置き去りにしても生き急
ぐようにあるいは死に急ぐように疾駆疾駆するまるで冬将軍の夏子
縮む縮む縮む夏子吼えろ燃えろ!

きみにとって秋は助走でしかなかった
きみにとって春は失速でしかなかった

春夏秋冬を温度でとらえるのではない
春夏秋冬を色彩でとらえるのではない
春夏秋冬を情緒でとらえるのではない
春夏秋冬は肉体でとらえる そのこころみなんだ

いまぼくは秋に立つ つぎに立つのは
きっと春だろう きみのまえでは ぼくはつねに
ふたつの季節にしか立てない だけど そのふたつの大地から
右手に泉のペンを握り締め
左の眼にカメラのレンズを嵌め込んで
永わにきみを描写する
常わにきみを照射する
とわに

 

 

*一部、作者のお名前に間違いがありました。訂正し、お詫び致します。

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