詩投稿欄

詩投稿作品 第22期(2021年7-9月)入選作・佳作・選評発表!!

詩投稿作品 第22期(2021年7-9月)入選作・佳作・選評発表!!

日本現代詩人会 詩投稿作品 第22期(2021年7-9月)

厳正なる選考の結果、入選作・佳作は以下のように決定いたしました。

【選考結果】

■片岡直子選

【入選】

浅浦 藻「行進」

涼夕璃「そうしてほしかった」

水城鉄茶「疼き」

よしおかさくら「出産」

ケイトウ夏子「踵が濡れる」

 

【佳作】

床伏「夏の日記」

篠井 雄一朗「盆休み」

新島汐里「melting

佐名田纓「あまりに恥を知っている」

シーレ布施「向日葵」

 

■上手宰選

【入選】

茉莉亜・ショートパス「台風の日」

守屋 秋冬「真夏、サンタになる」

園イオ「ゆでたまご キシキシ」

福田 叡「ニュージェネレーション」

 

【佳作】

南田偵一「北のほう」

神田慈鳥「彼の忘れもの」

床伏「夏の日記」

浅浦 藻「行進」

 

■福田拓也選

【入選】

シーレ 布施「感傷のバタークリーム」

勝部信雄「もじゃもじゃ」

佐名田纓「声」

凰木 さな「夏の終わり」

床伏「錯覚」

 

【佳作】

佐藤幹夫「明暗」

涼夕璃「こっち側」

田中傲岸隔絶

義若ユウスケ「夢の切れ端」

浅浦 藻「行進」

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浅浦 藻「行進」

とっくの昔にアメーバになった彼を
二階の窓から見送った
骨もなくなって歩き方を忘れた彼が
坂道を(ずるずると)くだって
街の方へ行った
声を出すのも忘れた彼らの静かな行進
そっと加わるのだろう

買い物袋を抱えたひとが
道のむこうで溶け出した
胃に入ったコンクリートごと
じぶんを消化してしまうらしい
じきに透明になって(先の彼みたいに)
陽炎のようにただ空気をゆらす

無機質のかたまりも
自分自身であったのに
かたまりごと抱きしめられなかった彼が
坂道をゆら ゆら
おりる
ただ ときおり
炎天の彼らが
とてもうつくしく見える

彼を見送った
きっとあの行列のはて
蜃気楼のふちに

涼夕璃「そうしてほしかった」

午前から引き続き
暖かく穏やかだっ昼下がり
急に風が荒れ始め
フワフワと並木道を舞っ蝶は
驚いようにジグザグ乱高下
数回大きくそれを繰り返
脇にある草むらの中へ
重なり合う葉の間
羽根を立ててじっと止まっ

ひときり暴れ後風は止んだ
するとま蝶は
羽根を広げ
揺れもない草むらから
ヒラヒラと離れ
無風の空中に舞っ行っ


あのまま

台風にでもなっ蝶をさらってしまえばよかっのに
森にでもなっ蝶を閉じ込めてしまえばよかっのに

水城鉄茶「疼き」


出血しながら
すごい顔で牛乳を飲んでいる

薬局でおまえは美しくねじ曲がった
おかしくなってしまうから
二度と歯を見せないでほしい

おまえとわたし どちらの傷か
わからないまま
バカでかい絆創膏で覆った

ただよう
ぶどうのような痛み

やめたほうがいいのだろうか

鳩が
血眼で石ばかり食べている
それを見て笑うおまえの白い歯……

よしおかさくら「出産」


妊娠した
夢で
すっり産む気になっていた
二度めだら手順は知っている
息子とふたり
どこに居ても
いつ産まれても良いように
産着ら枕まで用意した

産まれたの
私の夢は朝日に遮られて消えた
私のあの子は産まれたの
現実に産む気など無ったはずが
夢と共に消えてしまって
胸が重苦しい
あの子の
てゆびの細さ
膨らみのないほほ
ひざしたの短さが
思い浮ぶのに

名前の付いていない時期
私の名前にベビーと続けて
手首足首に名札を付けられ
授乳の度に連れて行れる
胎内に長く居たはずが
離れる時間ができてしまって

息子が私にぴったりくっついて
嬉しそうに笑ったりする

私のあの子は無事に産まれたの
出産などいらない
抱っこしてやればよった
抱っこすればよったんだ

ケイトウ夏子「踵が濡れる」


切り通した山の中を
緩やかなカーブ、何度も切りながら
くっきりと縁取られた空を
真正面に見据えて
白い家に向かう
蜘蛛の巣で封をされて
降った後の雨がこまかく揺れている
わたしたちはそうやって話をしている

扉を開る前の石段のよろめき
波が砕る海を見るために立つ崖と
大差はなかった
違うのは海からやってきたということ
点を落として言葉を見てきた
無限の雨として旅をするわたしたち

いらないものを捨てる作業のとき
手を広げてわたしは回転する
血管を流れているぬくみもまた
道であったのか
鼠色のアスファルトの上で
は軽石を咥え込みながら
壊れた印を刻んでいく

はい、おしまい

声がする

視線の先には
階段と水銀灯が待つ
ここもまだ海なのですか

茉莉亜・ショートパス「台風の日」


試合終わりに台風が上陸して先生の車に乗った
車に乗るのは祖父の危篤とお葬式のタクシー以来だ
地面で信号機の赤が溺れ叫んでいるからあのと同じ種類の雨
先生は最近、音楽を聴くようになったと言って宇多田ヒカルをかけた
病院の個室から今まで絶えず音楽の中にいた私は
今、先生にどんなふうにして音楽が雪崩れ込んでいるのか見当もつかないけれど、その細胞分裂は流星群に近い気がする
次に先生は飼育している熱帯魚の話を始めた
好きでも嫌いでもないが眺めている、だが惰性ではない、と左ハンドルを切る先生は光の角度でアンドロイドに見える
動画を1.5倍速にして意味だけを手に入れようとする私より惰性で熱帯魚を瞳に映す先生の方が健康的かもしれない
あと、恋人はつくらないらしい
熱帯魚は生まれながらドレスを着て、シャネルのグロスも心をくすぐるメールも求めないもの
先生はつまらない人
数式ばかり解いていたら、音楽の必要ない青春を過ごして、ボーナスを熱帯魚に使い切る成人男性になるのだろうか
呆れて黙っていると、先生は口を開いて
こういうは事故にあって死んでもいいんじゃないかという気持ちになる、と言った
車窓に張り付く雨粒ひとつひとつが生きものに見えるのは米粒に神様がいると祖母に教わったから
停止線を少し超えて、それらは血飛沫を彷彿させた
私は先生に弱音も愚痴も吐いたことがなかったのに
カーエアコンが外気を腐らせる夜
手を握ってあげてもよかったが、先生は気の利いたお返しを思いつかないだろうからやめた
交通安全の御守りがついているからそううまくは死ねませんよ、と私は伝えて、ウィンカーと雨の落下音は脇役にしてはひとの心を鷲摑みにしすぎている
蜘蛛の糸を渡るような歌声はどんな隙間にも入ってゆく、宇多田ヒカルが毒だったら人類はたやすく滅びただろう
私は家から一番近いファミリーマートの駐車場で車を降りて、アスファルトの海に先生をまっすぐ家まで帰すようお願いした
あれは甲州街道が分岐して土星の環に繋がっていた台風

守屋 秋冬「真夏、サンタになる」


真夏の街角に
サンタクロースを
見かけた

季節外れで
暑苦しいので
みんな
見て見ぬふりをする

本人も
気づかれないように
恥ずかし気に
そそくさと歩く

服は持っていないのか
律儀に帽子まで被っている

髭ぐらい剃ればいいのに
と同情したら
首には冷やしタオルを巻いている

サンタクロースも
熱中症には
気をつけているらしい

好奇心のかたまりなので
見て見ぬふりはできず
サンタクロースの後を追う

目的地は
僕と同じで
拍子抜けする

あっさりと
サンタクロースを追い越し
先に並ぶと
この店には良く来るのか
と話し掛ける

大粒の汗を流しながら
トナカイが好きで
今日はとびきり暑いから
差し入れようと思いましてね
荒い呼吸で丁寧に応える

猛暑日に
人気のカップジェラート屋に並ぶ
トナカイ思いのサンタクロース

聞けば
トナカイはバテで
食欲も落ちているらしい

子供の頃
一度も来てくれなかったけど
何ていいオジイサンだと思って
トナカイにはカシューナッツ
サンタクロースにはストロベリーを
プレゼントする

 園イオ「ゆでたまご キシキシ」


 ゆでたまごをときどきたべます。あれはあさからひるまでのたべもので、二じ以降にたべるならこまかくきざむのがいいでしょう。じかんによってかたちがかわるりゆうはしりません。
 ゆでたまごをつるんとさせるには、よくゆでないといけません。ゆでるじかんがみじかいと、しろみがやわらかすぎて殻がうまくむけないのです。でもゆですぎると黄身が灰いろになります。わたしはきにしませんが。あいつらはけっこう気むずかしいのです。
 かといってじかんをはかるのはいやです。たまごをゆでるのにじかんをはかるようなにんげんにだけはなりたくありません。ちゃーるずこうたいしはちょうど四ぷんゆでたものでないとたべないそうです。きにいらないとたまごを投げつけるとのこと。ほんとうですか。もったいない。たまごが湯のなかでぐらぐらゆれながら、もうそろそろいいんじゃないの~~~?ってよびかけるのをまつ。それだけのことなのに。
 もういいよの声がきこえたら、たまごをみずでひやします。たぶんだれでもそうするとおもいますが、わたしもそうします。そのときみずをじゃーじゃーながさなくてもいいんです。みずをためてあついたまごをいれておき、なべのうちがわにぶつかってカコンカコンいうのをききます。みずがぬるくなったら冷たいみずにかえます。それをなんどかくりかえし、たまごが殻をぬぐときをしずかにまちます。そのときももちろん、そろそろぬぐよ~~~ というこえがきこえたら立ちあがって台どころへむかうのです。
 こえをただしくきいたときのみ、つやつやにひかるたまごをたべることができます。そのときはくちびるをつけて、内がわからほんのりねつがつたわるのをたんのうします。しおつぼのひょうめんにそっとおしつけて、たまごのしろがしおのしろでおおわれるのをかくにんしたら、のどにつまらないようにちゅういしていっきにたべます。
 たまごのこえをききまちがえるときは、なげやりになっているか、おなかがすきすぎているときです。そんなとき、からがするっとむけなくてぼろぼろ、表面はつやがなくキシキシで、かわいそうなことになってしまう。こうして朝だというのに、たまごを切りきざみ、まよねーずをたっぷりまぜてしらんぷりを決めこむ。おいしそうなたまごさらだのふりをしていても、やっぱり舌でさぐればキシキシはそこにあり、おまけにごまかしにみちたものとなり、かろりーもおおはばにあがり、わたしのあさまですっかりだいなしになるのだった。

福田 叡「ニュージェネレーション」


十年ぶりに買い替えた洗濯機は
おとなしく切断される髪の毛のように
ひとつ仕事を終えた
衣類の中で大暴れする
わたしの汗であるとか
世の中から頂いた理不尽な塵芥を
前任者のように
力でねじ伏せようとはしない
それはスマートに
和解しながら
解きほぐしていく
壮絶な格闘の最中に
大きな声で喚き散らし
仕事を投げ出すこともしない
わたしはなだめる手間を負わずに
ただワイドショーを眺めているだけでいい


仕上がりは水道水の匂いと
開花寸前の芳香剤
前任者もそうだった
もう闘い方は
変わってしまったのかもしれない
もうバラバラにされて
くたびれた内臓や
丈夫な骨を
誰かがもらってくれたのだろうか
前任者の行く末を
洗濯日和に
ぼんやりと考えられるほど
新人はスマートに
仕事をしている

シーレ 布施「感傷のバタークリーム」


「男の子みたいな言葉、
使わないでって言ったよね」
「ごめん、ごめんけどごめんなさい」

シラーの音楽に合わせて頭を下げる
私の掌の中に眠り続ける
バタークリームサンドの感傷
ずっとずっと隠していたいけれど
それはいつも少しだけ叶わなかった

「男の子から見ても駄目って
思われちゃうんだよ」
「ごめんけど、けどいい
もういいって理恵ちゃんは思うの」

まだ成熟しきらぬ眼力で
割れ目を探し、舌を突っ込んで
バタークリームを舐めている
集中して吸い上げているさなか、
母は雑な手つきで車を運転している

「ママは知らないのかな
キミのこんな姿見たらなんていうのかな」
真夏に蝉を佇ませた樹木が私に言ってきた
その根元が切断された部分を眺めながら
「そんなのは知らない」と言った
樹皮の蜜が垂れては、地に落ちていく

頭の中のチューベローズの整列と合唱に
「うるさいよね、みんな獣なのに」
ずっとこれらを感じていたいけれど
いつもなにかが鳴りやんでくれない

ママ、男の子みたいになりたい
理恵ちゃんは底まで甘いねって
言われるのが本当は気持ち悪かったの
もっと見せてはいけない割れ目で
黄色い視線から縮んでいく
溢れたプールで裸になって割れる

 勝部信雄「もじゃもじゃ」

背中から何かが落ちてきて
大腸がキャッと
言ってしまった
ひとりきりでは
ひとりになれない
そんなからだも
きっとあるのだ
ニンゲンがタンパク質の
塊じゃなくなるころには
いまはもうみらいになんて
ならないのかもしれないね
誰かがそう話した昨日は
たまたま季節のない一日で
それでも雨は降っていた
傘をさしてるみんなはとても
ひとりみたいに
見えたけど
日がさしてきて
傘をたたむと
むじんのように
なってしまった
思わず見上げた水色が
なんだかすごく
もじゃもじゃしていて
もうすぐ今日に
なりそうです

佐名田纓「声」


白さを持つということが
世界の存在意義だと思う

打ち明け話のに耳を
澄ませているような朝の光

冬の息をひとつ吐くたびに
誰かのことを忘れていく

数えきれない息をつくために
前も知らない多くのひとを憶えている

ただしく話すための実践的な方法は
上っ面で話すということ

本気でしゃべろうとすると
恥ずかしい話し手になってしまうから

私は長い間そのことがわからずに
たくさん恥ずかしい思いをしてきた

冬はピアノに似ている
音や姿で語るから

 凰木 さな「夏の終わり」


夏の終わり
高原では
ヒグラシが響き
お日様が傾くと
辺りはキラキラと輝き
影は
果てまでも
長く伸びる

一脚古びた椅子が
風雨に
熱波に乾き
崩れそうにがら
風景中心で
黄昏れている

あれは誰椅子だったか
椅子だったか

何も分からず
全ては足早に去って行った

夏の終わり

床伏「錯覚」


何もかもを引き伸ばす
あたたかい季節が
細切れにされて

充満しきれなかった体や心が
迷子になっている
気泡の中でくるくる 回っている 
 方々で

粘度の高い黄色の夏の
希釈の甘さで
固まりが出来ている
その隙間に気泡が生まれて
迷ってしまう
細切れのままで


冬には連れていかれないものたちが
よく目に見える
分からなくなるものに手を振るのは不思議なもので


わたし死んでも 気付けないのに


◆片岡直子選評

4歳から93歳。記憶しているだけでも、幅のある年齢の方が、投稿して下さっています。今期は特に、皆さまが詩を長く手元に置かれ、慎重に推敲を重ねられた気配を感じ、嬉しく思っておりました。

今回は、タイトルのことを、書いてみようと思います。一部の方の詩を拝読していて、もったいないと思うことがあります。一つは、タイトルが詩を要約してしまっている場合です。要約されていると、詩を読み始める前に、中身が分かり、読者が詩の中を歩き始めた時には、新鮮味が失われていることもあります。二つ目は、詩の素晴らしさにタイトルが追いつかず、あまりに、ありきたりだったり、工夫が無いと感じられる場合です。私見ですが、詩が文章だとすると、タイトルは二番目の文末だと思っていて、さりげなく詩に入り、読み終えて戻ってきた時に、すとんと腑に落ちる、あるいは、ハッとさせられるタイトルに出合えると、頬がほころびます。詩本体と同じくらい大切な、ある意味では、もう一つの詩……と言っても良いくらい大切なタイトルのことを、時々、見直して推敲をして下さると、全体が一層ブラッシュアップされると思います。

また、おまけですが、練達の書き手の方の中には、ご自身で完結されていて、読者の存在を必要とされていないように感じられる詩もあり、どこかに破れ目(? 突っ込みどころのようなもの?)があると、読む者の、心や頭が動く余地が生まれて、佳いのかな? と思うこともあります。

現在の選者による選考の最終になるかと思われますが、来期も、会心の御作品を、心待ちにいたしております。

入選

・浅浦 藻「行進」 アメーバと、蜃気楼と。「彼」という、描く対象を放置しているようで、すくってもいる、距離を置いているようで、親しくもある、落ち着いた眼差しが印象的です。

・涼夕璃「そうしてほしかった」 この方には、傷ついて放心したような詩もあるのですが、本作は、それを抑えながらも、詩人が自らを、蝶に投影するような、抑制と美しさが生まれていると思いました。

・水城鉄茶「疼き」 今期までの9作品、全て力作でしたが、本作の、一行空きは新鮮でした。試みに、他の詩も、いくつかの優れた数行ずつの島を残して、一行空きをイメージしてみたところ、私個人としては、その方が、詩句の際立つのを感じ、好印象でした。もちろん選択は自由です。

・よしおかさくら「出産」 実際にご覧になった夢かも知れないですが、最初から、あるいはどこにも存在していない子供に愛情を抱くというのは、あるだろうな……と思いました。「出産などいらないから」に、いくつもの思いが感じられ、心に残りました。

・ケイトウ夏子「踵が濡れる」 今期の投稿作の中では、真ん中辺りの篇数のタイミングで送られてきた詩ですが、何回か、あの海の……と思い出していました。事柄を重ね合わせた思慮深い文言が、「踵」に集約されていく様子に、魅力を感じました。

 

佳作

・床伏「夏の日記」 もう一つの詩「錯覚」と同じくらい、第13連の詩句の推敲(省略)が行われたら、入選にしたい詩でした。3連には動きもあり、最終的に静けさが佳く残る、素敵な詩になっています。

・篠井 雄一朗「盆休み」 第1連のうっとりする美しさと、2連前半の日常的な俗っぽさが対照的で、後半に描かれた方の眼差しを、一層引き立たせたと思います。

・新島汐里「melting」 佳作選においては、詩の全体が公開されないので、詩句の引用は控えたいところなのですが、「買ってきた花が枯れるのは花を買うことをやめないからだ」他、多くの詩句に引き寄せられました。丁寧に言葉が重ねられており、最後の一文(句点がついているので「文」とします)は、読者に感じ取ってほしいことなので、書かずに堪えて下さったら、より佳かったと思います。

・佐名田纓「あまりに恥を知っている」 多くの困惑の果てに訪れる、静けさのような詩を書かれる方で、この詩は、自他をよく分析、観察し、書くことでしか到達できない、内面をつきつめた詩、のように読みました。「声」の最終連、そして、「既知」も印象に残りました。

・シーレ布施「向日葵」 同じ方の、他の詩より、直球の作品で、これを書くことで、その先の詩が、一層深まっていくような位置の詩……と、思いました。最終連に、浮上の気配を感じました。「感傷のバタークリーム」も、最終行が特に佳かったです。

 

選外佳作

・白河ひかる 「朝」

・小田倫理  「グラス」

・山羊アキミチ「扉の向こう」

・石川順一  「空中」

・絶ツツツツ句  「母」

・蒼森 ゆき 「向日葵の憂鬱」

・松本徹   「宇宙」

・おでん屋  「部屋の中で私は扇風機にキスをする」

・夏城あいか 「ともだちの詩」

・吉岡幸一  「冷蔵庫の小人

 

 

◆上手宰選評

【入選】

茉莉亜・ショートパス「台風の日」

先生に車で送ってもらった時間に見たり話したりしたことを連綿と書いているだけですが、その叙述のすみずみに作者の感じ方がスパークする仕組みになっています。音楽が人に雪崩込むさまが流星群のよう、と思ったり自分を「動画を1.5倍速にして意味だけを手に入れようとする私」と分析したり。しかしその相手となるべき先生は「つまらない人」で、数式を解く日々と熱帯魚にボーナスをつぎ込むタイプ。角度によってアンドロイドにも見えるそうです。作者の独り相撲的発想は次々と展開されているのに対し、現実には静かな車内風景らしく、突然先生が「こういう日は事故にあって死んでもいいんじゃないかという気持ちになる」などと言い、ヒロインは交通安全のお守りなどを出して無理でしょうと応える。二人のどんな距離を積んでこの車は走っているんだい?と言いたくなる光景ですが、その距離が読者に与える不思議な空間は魅力に満ちていて、詩だなぁと思わせられます。比喩だらけに見えて案外手堅い世界。同作者の他の二篇もすぐれた作品でした。

 

守屋 秋冬「真夏、サンタになる」

南半球ではクリスマスは夏ですが、絵本ではどう描かれているのでしょうか。そうした想像も含めて〈真夏のサンタ〉という設定が奇抜さで際立っているとは思えません。しかし読んでいて引き込まれるのは、作者の描き方によるのでしょう。まわりの人が「見てみぬふり」をしたり、本人も「恥ずかし気に/そそくさと歩」いたりしているところに、大スターのサンタ像から完全に脱落している姿があります。かと言って、童話の世界は残虐な世界であるといった一頃流行った倒錯デフォルメでもなく現代の日常に普通に迷い込み(しかも早々と慣れてもいるようです)、好奇心にかられた日本人と普通に話をしているところにとぼけた味が出ています。配達先の子どもたちより前に同僚のトナカイに優しいおじいさん。「大粒の汗を流しながら」ジェラートを買おうと並んでいるのはニセ物では決してありません。それだけは確実です。サンタが「子供の頃/一度も来てくれなかった」作者だからこそ分かるのでしょう。

 

園イオ「ゆでたまご キシキシ」

詩は何かの役に立ったりしてはいけない、というのが私の持論なので、この詩に従って美味しい茹卵が完成しちゃったらどうしよう、と思うのですが、作者は詩とは何かを直感的にご存知のようで、逆手に取って実用性と効用を前面に攻めてきます。卵に対して「あいつらはけっこう気むずかしい」だの、時間計測を否定し「たまごをゆでるのにじかんをはかるようなにんげんにだけはなりたくありません。」などとわけの分からぬ気炎を上げつつ(時が目盛りや数字から開放されるようです)作業を続けます。最終的に「こえをただしくきいたときのみ、つやつやにひかるたまごを」得ることができると、職人気質を礼賛。詩もまた何かの「こえを正しく聞いた時のみ」得られるものです。失敗した時には卵サラダにしてごまかしますが「おいしそうなたまごさらだのふりをしていても、やっぱり舌でさぐればキシキシはそこにあり、おまけにごまかしにみちたものとな」るそうです。この詩はどちらでしょう。私には「キシキシ」ではなく「つやつや」そのものでした。

 

福田 叡「ニュージェネレーション」

前世代を次の世代が批判し取って代わる時にはなにがしかの闘争があるというのが通念でしたが、もうそんな必要もない、というクールな感覚に満ちた作品です。ここに登場する洗濯機でいえば、大量の水と腕力で衣類についた汗や汚れと格闘する旧型とは違い、それらの汚れを「スマートに/和解しながら/解きほぐしていく」新型なのです。この日常に親しい家電製品を眺めるように人間社会を語るところに、この詩の面白さがあります。しかし私がこの作品に感じる魅力はそうした理知的な視点以上に、そこに漂う静けさ、どことなく寂しいような、気の抜けた雰囲気です。「前任者の行く末を/洗濯日和に/ぼんやりと考えられるほど/新人はスマートに/仕事をしている」という最終部はみごとですが「スマート」にはどこか違和感も付着しています。「前任者」を洗濯機に見立てながら職場を連想させる叙述も確かですが、同時に「洗濯日和」のある日のできごととして描いている点が非常に効果を上げています。何気なさの大切さが光る作品です。

 

【佳作】

南田偵一「北のほう」

方角という不思議なものと、土地に貼り付いた目印となるものとの関係を面白く追求しています。それに時間要素を加えると十年後にスーパーはどうなっているか(古いお寺との違い)とか、自分が「古里を離れる」時には行った先にも東西南北がある(方角は自分を起点にして持ち歩ける)などの変化球を投げてもいます。ついには太陽を「当てにならない」と退けるという破格に至りますが、これはすでに最初の連で予感されていました。そうしたかすかな違和感と優しい言葉で読者を新たな世界に誘う、魅力的な作品です。

 

神田慈鳥「彼の忘れもの」

一度はお母さんのおなかに宿りながら生まれることのなかった子の思い出を、「お客さん」と呼んで描いています。生まれなかった理由は書かれていませんし、それ以前に「生まれなかった」こと自体を認めているようすもなく「自分の国に忘れ物をした」ので取りに帰っただけですぐ戻ってくると説明しています。端的に結論を急げば、単純な事実だと割り切るのではなく、「誕生」への優しく深い思いが描かれたことに胸打たれます。そして読者は思い出すのです。誕生とは最もだいじな「約束」にほかならなかったのだと。

 

床伏「夏の日記」

ふだん使っている「夏」というものを比喩で描こうとすると、こうなるのだなぁと感心しながら読みました。「始めと終わりしか見えない」ものであり「柔らかに横たわっていた生暖かく湿った生きものの跡」(後になってそれがわかる)であり「夏の只中で目を開けると/水の中で目を開けたようにしぱしぱとする」ものだと作者は言います。体感ではそれぞれの人が持っていても言葉にするのは難しい季節感などの感覚。「只中を持ち帰れる」ためにはまず水の中で目を開けることのようです。詩を書くことと似ていますね。

 

浅浦 藻「行進」

「とっくの昔にアメーバになった彼を/二階の窓から見送った」という脱現実的な情景に引き込まれました。コンクリートとか無機質な物体だった自身をも消化してしまうとか。何かの言葉を代入して読むのが苦手な私はイメージ自体を楽しみました。足のない歩みのアメーバが「声を出すのも忘れた彼らの静かな行進に/そっと加わるのだろう」の口調の優しさと「炎天の彼らが/とてもうつくしく見える」に強く惹かれました。生命の不思議さに光が当てられたような。今回の佳作は若い方が多いですが、この作者は高校生です。

 

◆福田拓也選評

 一つの完結した作品を作る意志と能力、そうしたものを何かのきっかけで失って無力感、不能感にさいなまれた時にかえって言葉が動き出し、詩が到来する。いちがいに言えませんが、そうしたこともあるのではないか、と今回の詩を読んで思いました。言葉を操る能力と詩はほとんど無関係ではないかと思います。とはいえ、無力感があれば詩がやって来るとも限らないのがつらいところです。いずれにせよ、詩はこちらの意図とはあまり関係なくやって来たりやって来なかったりするということなのかもしれません。

 もう一点、今回はなぜか何行かカットすると格段によくなると思った詩が何篇もありました。強度のある詩行が何行かやって来た場合、それ以上わかりやすい言葉を書かない方がいい場合が多いように思いました。その方が謎めいていてインパクトの強い詩になるのではないかと。作品としてまとめようと無理に思わないこと、そして誰かにわかってもらうために作品を届けようと思わずむしろ書いた時の自分の感覚の強度を重視することが大事なのではないでしょうか。

 

【入選】

シーレ 布施「感傷のバタークリーム」

しっかりとまとまった作品を書く実力がありながら、コメントに「もう好きに書きました」とあるように、敢えて崩して、というか言葉を呼び込むようにして書いた結果、この上なく素晴らしい詩が生まれました。「理恵ちゃん」や「母」、「樹木」などが説明なしに現れる感じ、様々な声の交錯、とりわけ「男の子から見ても駄目って/思われちゃうんだよ」など徹底して道徳的プレッシャーをかけて来る声の介入、「樹木」までが「ママは知らないのかな/キミのこんな姿見たらなんていうのかな」と言うところ、どれも見事というほかありません。そして「割れる」危うさを孕んだ最後の3行も最高です!「もっと見せてはいけない割れ目で/黄色い視線から縮んでいく/溢れたプールで裸になって割れる」。このような詩をいくつも書いて頂きたいと願ってやみません。

 

勝部信雄「もじゃもじゃ」

「傘をさしてるみんなはとても/ひとりみたいに/見えたけど/日がさしてきて/傘をたたむと/むじんのように/なってしまった」というインパクトある詩行で突如異空間が開かれているところが素晴らしいです。そのあとに続く最後の5行では再び元の空間に戻ってしまっている感があるので、この5行を削るとより凄みのあるほとんど完璧な詩になるのではないかと私は考えましたが、いかがでしょうか?

 

佐名田纓「声」

何といっても「数えきれない息をつくために/名前も知らない多くのひとを憶えている」というよく理解できないながら極めて説得力のある2行が際立っています。これに続く4連8行はあまりにもわかりやすい説明のようになっているので、思い切ってこれをカットして最初の4連8行だけにしてみてはいかがでしょうか?「白さを持つということが/世界の存在意義だと思う」という印象的な2行で始まる極めて凝縮された一段と素晴らしい詩になるような気がします。

 

凰木 さな「夏の終わり」

「一脚の古びた椅子」が「風景の中心」となるところに異空間が開かれます。「一脚の古びた椅子が/風雨にさらされ/熱波に乾き/崩れそうになりながら/風景の中心で/黄昏れている」。それ以降の5行は説明的で、直前の詩行のインパクトが弱まってしまうかもしれません。この5行をカットするとより強烈な印象を与える詩になるのではないでしょうか?いずれにせよ、自分の言葉で風景のうちに異次元のものを見出して行くところが魅力的です。

 

床伏「錯覚」

どこか捉え難いものがありながら魅力的な詩です。ここには独特の身体感覚があるような気がします。「分からなくなるもの」とは、「細切れにされて」いる、あるいは「気泡」のように「くるくる 回っている」、そして運動の渦の中に「迷ってしまう」ばらばらになった自分の体なのでしょうか?「わたし死んでも 気付けないのに」という最後の1行もきいています。

 

【佳作】

佐藤幹夫「明暗」

「彼女の小さな掌に/砂礫は強く握られ/渇水の源流に/水紋を作った」という最初の4行がふつうはあり得ないような独自の空間を開いています。それに続く3行「喉元に疵を残し/限界まで握られた小さな魚は/突然の曇天に身を硬くした」もその凝縮度と行間の距離感が絶妙で素晴らしいです。それに続く最後の6行はせっかく表象困難なねじれた空間を創出したのに、またごく普通の空間を導き入れている気がします。思い切って最後の6行をカットすると、極めて凝縮度の高い謎めいた詩が誕生するような気がしますが、いかがでしょう?

 

涼夕璃「こっち側」

光の注がれる向こう側とそうでないこちら側から成る世界をいわば素手でしかも非常にシンプルな詩的形式によって構築したところは見事と言うほかありません。そして「春に弾かれた愛を歌いながら」という素晴らしい詩行がこの作品をさらに高度な詩にしています。このような詩を書き続けて行かれると凄いことになるという予感がします。

 

田中傲岸「隔絶」

「宇宙の彼方」にある意識とこの地上でつまずいている「はかなさ」とのコントラスト、「隔絶」が印象的な詩篇です。「ただ眺めることしかできない」ような、あるいは「指一本動かせないでいる」ような無力感がここにはあるのでしょうか? この一種の無力感のせいで言葉がかえって動いており、魅力的な詩篇となっています。ここで詩人は自身の詩を見出しつつあるのではないか、と私は考えました。

 

義若ユウスケ「夢の切れ端」

一つの作品として完成された感のある詩です。「小さな鋭い歯をみせて笑い/細い爪が腕に食いこんでいる」という2行が詩に痛いような現実感を導入しています。また、「押しつぶされた火みたいな眼で/そんなことをささやいて/どこか遠くで損なわれていく」という詩行の行間の飛躍や距離感が絶妙です。

 

浅浦 藻「行進」

体の溶け出して行く人たちのいるこちら側と彼らの目指す先であり「声を出すのも忘れた彼らの静かな行進」の展開される向こう側から成る世界を生々しい形で形象化しています。言葉の出し方、というか到来の仕方、そして他者としての「彼ら」のあり方にこの詩人の大きな可能性を感じます。

 

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