詩投稿欄

日本現代詩人会 詩投稿作品 第33期(2024年4月―6月)入選作・佳作・選評発表!!

日本現代詩人会 詩投稿作品 第33期(2024年4月―6月)
厳正なる選考の結果、入選作は以下のように決定いたしました。

■うるし山千尋選
【入選】
咲谷みわ「つつがなく」
戸田和樹「夏を灼く」
けむすけ「手」
吉岡幸一「佐藤君の生死」
むきむきあかちゃん「ゆずりあい」

【佳作】
白川厚「自己紹介世界」
こやけまめ「音が海になるまで」
牟呂弓矢「厨房の先へ」
金澤恭平「夕暮れ」
岡久生「雨」

■浜江順子選
【入選】
露野うた「存在証明」
佐々木春「コミュート」
むきむきあかちゃん「アイママーシアン」
熊倉ミハイ「またぐ朝」
吉岡幸一「鈴木さんは滑る」

【佳作】
柿沼オヘロ「モリオン」
高橋日佳「器」
卯野彩音「月夜の石」
鈴木日出家「正しい鏡」
こやけまめ「音が海になるまで」

■雪柳あうこ選
【入選】
佐々木春「リフレクト」
泉水雄矢「缶蹴り」
柴田草矢「石となる」
吉岡幸一「田中様は石を投げる」
柿沼オヘロ「遺影」

【佳作】
こやけまめ「音が海になるまで」
三好由美子「バージョンアップの夜」
むきむきあかちゃん「ゆずりあい」
メンデルソン三保「砂漠」
芦田晋作「あかるいエレベーターのなかで」
むらやまちあき「レモンとおじさん~連なり、生まれる~」

【選外佳作】
蒼ノ下雷太郎「こたえ」
狐針ヶ「私が捨てたもの」
妻咲邦香「カレンダー」
械冬弱虫「Duchess of」
戸田和樹「夏を灼く」
三刀月ユキ「朝が来るまで」

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咲谷みわ「つつがなく」

三寒四温の今日この頃
ご健勝のことと存じます
日の出とともにとこを抜け
芽吹いた梅を見てるでしょうか

つゆ草の青より青い影のうちで
刻んだ菜と根をつゆに入れ
えんどうを茹で
湯をこぼし
こぼした湯の青くささ
その香りとその色を
胸のうちで
数えております

この子も春で二年となります
赤子のような掌に
また擦り傷をこしらえて
もう泣くこともなくなりました
それを寂しいということを
まだ私は
照れくさいのです

一旦緩んだ冬の名残が
やはりそのまま帰りはせずに
春とのあわいに溶け残り
列を組んだアリのように
どこかへ向かって
土を掘り
そのまま家に持ち帰ることを
どうか許して
許してほしい
そうして今まで残したものを
何かにくるんで
青葉のころに
背中を見せてくれますでしょうか

光が差した畳の上に
ほこりが淡く線を引き
ちびた鉛筆を転がして
寝転ぶあなたの幻影が
机の上の紙の上に
ひょうたんみたいに
現れて
それが例えば椿のような
はっとするほどの
色みを帯びて
夕焼けの中で影を帯び
どこか遠くへ
行かないように
引いては押してを繰り返し
それでもあなたの背を追って
そしてあなたはつつがなく
お過ごしくださることでしょう

戸田和樹「夏を灼く」

夏を灼く

茄子を焼いた日
がたがたの裏口扉の前で
七輪に火をおこす

破れた団扇でパタパタ扇ぐと
炭が怒りだす
パチパチチリチリ
火の粉を上げる

茄子と茄子の間に
ぼくの萎れた夏を置く
どこ行くという予定のない
何といって代わり映えしない夏を
灼く

紫色の皮が萎れ焦げ
反り返り
茄子が悲鳴を上げる
柔らかくなった茄子を菜箸で摘んで
冷水につける
皮をむくと薄緑色の焼き茄子が出来上がる
皿にのせて生姜と鰹節をそえる

庭に飛んでくるアキアカネの群れを
目で追いながら
足に集まる蚊を手団扇で追い払う
燃えカスになって軽くなった夏は
夕焼け空に蝙蝠を飛ばしながら
夜を運んでくる

けむすけ「手」

死の間際
母が自分の手をギュッと握ってくれた
利き手ではない
左手で

吉岡幸一「佐藤君の生死」

佐藤君は生きているのか死んでいるのかわからないと言う。僕は生きているのか死んでいるのか考えられるのだから生きているのではないかと答える。そもそも死んでいたら考えることなどできないのではないか。死んでいたら死んでいることもわからないのではないかと言うと、佐藤君は死んでいると考えられないということはないのではないかと疑問を呈する。死んだのは肉体であって意識が肉体の死と同時に死んだとは限らないではないかと反論する。つまり肉体の死後も意識は残り続けると考えているのかと尋ねると、死んだことがないのでそれはわからないと話す。

佐藤君は死に夢中だ。夢中だといっても死にたいわけではない。死とは何かということに興味があるわけだ。それが医学的、生物学的問題ならば答えを探す道を示すことは可能なのだろうが、佐藤君はきわめて自己的に死とは何かと考えている。文学的といっても良いのかもしれない。いずれにしても佐藤君の死とはあくまでも自分自身の死についてだ。他人の死についてではない。他人の死は佐藤君にとって数字であり物語であり腐った蜜柑の皮を剥くようなものである。佐藤君が非常にロマンチストであることは充分に想像がつくことだろう。なぜならロマンチストはいつだって死に囚われている。

佐藤君はもしかしたらすでに死んでいるのかもしれない。動き、呼吸をし、話すから生きているというのだろうか。普通はそう考えるだろうが、こと佐藤君に関してはそうは云い切れない。佐藤君なら死んでも動き、呼吸し、話すように思えてならない。佐藤君は死んでも死なないのだ。僕の心の中に生き続けるなんてキザなことは言わない。それほど僕はロマンチストではなく、人間の皮を剥げば内臓があると考えている。佐藤君自身は自分を死んでいて欲しいと考えているのだろうか。生きていて欲しいと願っているのだろうか。それがわかれば地球が丸いことを疑ったりしないと佐藤君は答える。

佐藤君は「君はすでに死んでいる」と僕に向かっていう。すでに、ではなく、やがて、ではないかと問うと、佐藤君は、すでに、も、やがても、同じことと答える。過去も未来も現在さえも佐藤君にとっては同列らしい。ならば、佐藤君は生きていて死んでいる、死んでいて生きている、といっても間違いではないことになる。答えが出たではないか、と僕は喜ぶ。佐藤君は生きているのか死んでいるのかわからないのではなく、生きていて同時に死んでいる、というのが答えなのではないか。それを聞いた佐藤君は笑う。悲しくて笑っているのが僕にはよくわかる。

佐藤君は佐藤君として生きて同時に死んでいるが、実は佐藤君は佐藤君ではなく渡辺さんでもある。鈴木さんでも近藤さんでもある。佐藤君は佐藤君を含め、佐藤君以外の誰でもあるのだが、佐藤君は佐藤君だけになりたいと思っている。そして生きていて同時に死んでいるのが嫌になっているらしい。らしい、というのは佐藤君がそう言ったからではなく僕がそう感じ取っただけだからである。答えを得てからの佐藤君はいつも悲しんでいる。悲しんでいるのに喜んでもいるという。悲しみと喜びを同時に感じていることに疲れているようだ。僕は佐藤君を救ってあげたいと真剣に思っている。

佐藤君は自力で解決策を見出す。生きていて同時に死んでいることを感じなくなるよう努める。自らの肉体を動かすことを止め、思考を止め、空っぽになることで生死の外側にいこうとする。そうすれば救われると佐藤君は言う。僕は逆にひたすら考え続け、ひたすら動く肉体を味わい続けることが生きていて同時に死んでいることから逃れられる方法ではないかと説く。しかし佐藤君の同意は得られないと同時に同意される。結果、佐藤君は佐藤君ではなくなり、他の誰でもなくなり、他の誰にでもなる。僕は結果を受け入れつつも佐藤君という存在の外側にある食物を食べ、腹を満たし、腹を壊す。

むきむきあかちゃん「ゆずりあい」

 はい
 あの
 いったいゆずりあいとは
 どのようなこころでしょうか
 先生が黒板にチョークをカキカキ叩きつけながら
 とてもよい質問を教室に流す
 はい
 手を挙げた私の指は
 教室に充満した 先生の質問に突き刺さり
 すこし痛いおもいをしつつ
 こたえる
 はい
 ゆずりあいとは
 はい
 あの
 ただっぴろいホールに迷い込み
 だれもいないのに自分の居場所がないように思われ
 壁にわんわんと響く自らの声に怯えるひとに
 ここにはわたしがいると伝えて
 安堵をわかちあうような
 そういうこころです

 いいえ
 あのね
 まあちょっと
 ちがいます
 先生は私の答えにチョークでバツをつけると
 おしいですね
 ゆずりあいとは

 ただっぴろいホールに迷い込み
 だれもいないのに自分の居場所がないように思われ
 壁にわんわんと響く自らの声に怯えるひとに
 ここにはわたしがいると伝えて
 安堵をわかちあうような
 そういうこころです

 なるほど ああ まさか
 そういうことだったのか
 私は合点がいって
 目を丸くする
 周りのみんなも
 おどろいて目を見合わせる
 すごいね
 そういうことか
 でも先生の言うとおり
 私もかなりいい線を行っていたというわけで
 自信をもって
 学び続けよう

 それではみんなで
 正解を復唱しましょう
 先生の声に合わせて。

 そう
 ゆずりあいとは
 ただっぴろいホールに迷い込み
 だれもいないのに自分の居場所がないように思われ
 壁にわんわんと響く自らの声に怯えるひとに
 ここにはわたしがいると伝えて
 安堵をわかちあうような
 そういうこころです

 ゆずりあいとは
 ただっぴろいホールに迷い込み
 だれもいないのに自分の居場所がないように思われ
 壁にわんわんと響く自らの声に怯えるひとに
 ここにはわたしがいると伝えて
 安堵をわかちあうような
 そういうこころです

露野うた「存在証明」

タイトル「存在証明」
朝日を浴びながら
徐々に溶けていくわたし
光が強くなっていくたびに
大きくなる影
わたしを飲み込んでいく
「身分証明書を見せてください」
影はわたしに呼びかける
差し出された手に渡せるものは
わたしは持っていなかった
「わたしがわたしのことを知らないのに証明しろというのですか」
存在は風船のように膨らんで
手の届かないところで破裂する
「あなたは生まれた時からあなたになったのです」
差し出された手はまだわたしの前にある
それが義務かのように
「わたしがわたしを見ることができなくてもわたしといえるのですか」
崩れ落ちていきそうな輪郭
生きているという温度だけが
存在していることを明らかにする
「あなたがわたしだと知っているから」
影はわたしと同じ形をしている
指でなぞれば曖昧だった輪郭が現れる
こんなに近くにわたしはいたんだ
失ってしまいそうな命の形
確かめるように抱き締めた
解けかけていた紐を固く結んだ
わたしはたったひとりの
わたし

佐々木春「コミュート」

光で薄めた暗闇の中心を
銀色の電車がボールペンみたいに水平に滑っていく
その窓ガラスから広がる青白い明かりを
同じ速さで走るもう一本の電車から見てる

直方体の空間を効率的に満たす人たちは
それぞれのやり方で自分の重さを場所にあずけて
音にならない微弱な思いを
右手につながる卵みたいな端末から発信する

絶えず都市を行き交う信号のいくつかを
この電車の誰かが受信してたとして
相手は夜を挟んだ対岸で吊輪をつかんで移動するあの人かもと思うのは
肩まで切られた胡桃色の髪のせいかもしれない

単調な線路の振動が足から伝わり
エコーになって縦方向に巡るうちに心拍に同期して
穏やかな低音はからだを流れるリズムに融けていき
同じ距離を保ちながら端末と向かい合う彼女を見つめる

あの萌黄のラインの電車の震えも彼女に響いて
いくらか気持ちを揺らしてるかもしれないって思ったとき
前髪が上がり生まれたての視線が瞬時に夜の河を渡る

わたしはゆっくり両目を細めてそのスピードをやり過ごす
並んで移ろう電車の鼓動に耳を澄まして彼女の呼吸を考える
斜め後ろに意識を薄めてわたしの居場所を明け渡す

ミルクみたいな靄が濃くなる中でふと
彼女はそのままわたしなのかもしれないって思いが隅の方から沁みだす
それはやがて全面に広がり
実はわたしが彼女なのかもしれないって色合いに近づいていく

電車の距離がそのまま縮まり歩いて渡れそうになったとき
結局どっちも変わらないかもって急に気づいてわたしがすうっと軽くなる

徐々に速度を落としながら電車が離れて河幅は広がる

その姿がプラットホームの向こうに消える寸前
彼女はまた端末に目を落とす

電車が停まり雑踏をやり過ごしてから
わたしは携帯に手を伸ばす

気を許して腰かけたきれいな機械を見回した後
わたしの意味をしるしに託して遠くの方へと流れていく

むきむきあかちゃん「アイママーシアン」

地球からソラへ伸びるエレベーター
乗り込んだら もうしたいな サヨナラ
君たちとちがう アイママーシアン
やし火星行ったら要らないマシンガン

いつも連絡追って来るいらん補足
それよりはよ行って追いつきたい孫悟空
あと何キロ飛ばしたら越す?筋斗雲
今まだ自習室の中にいとる!

ギアつけて回す夢の第一歩
いつかつくるよ宇宙にアジト
白昼夢しかないんよ脳が過眠症
ちょい辞めたい有機 なるカルボカチオン

イキった空想はすぐ消える
けど粋な名案もすぐ消える
イキイキして生きたいウツツ
でも息切れしてすぐなっちゃう鬱 ツ〜。

地球からソラへ伸びるエレベーター
乗り込んだら もうしたいな サヨナラ
君たちとちがう アイママーシアン
やし火星行ったら要らないマシンガン

熊倉ミハイ「またぐ朝」

夢の中で人を殺してしまった
朝、目が覚めて
急いで身支度をする
自首しなければならない
いや、まずは通報をするべきか
どちらの電話で通報するか
夢の中の警察は
現場の証拠を現実と共有できるものなのか
考えていても仕方ない
電車に乗り
携帯を耳に当て目を瞑る
すると
どうされましたかと
二人の警官がほら穴から駆けてきた
私は森でうつぶせに倒れた彼女を見せた
凶器はどこですか
凶器は
この
胸いっぱいの
不安です
警官は
森をため息で包んだ
死体も優しさに包んだ
実は
僕たちは
このまま天使にでもなろうと思うんです
そうですか
どうぞご勝手にと
言いたいがそれは困る

目を開ける
警察署のある駅を過ぎていた
目を閉じる

私は何の罪に問われるか
二人の天使が
首を傾げる

 

吉岡幸一「鈴木さんは滑る」

 児童公園のすべり台を今日も鈴木さんは滑っている。午前七時になるとやってきて、子供のいない公園のすべり台を毎日十回滑っている。すべり台は鉄製で、手すり付きの急な階段を二メートル上ると、約四十五度の尻をつけて滑るための斜面があり、幅は人一人が滑れるほどしかない。すべり台は冬になれば触れる手が凍るほど冷たいが、夏になれば触れる手が焼けるほど熱い。そして今は夏だが、早朝の時間はまだ鉄もさほど熱くなく、温度を気にすることなく滑ることができる。
 鈴木さんはとても優雅に滑る。まるで羽の生えた天使が遊ぶように軽やかな身振りで滑っていく。もしくは初恋の人がほほ笑みを浮かべながらキスをしてくれるような素振りで滑っていく。早朝公園にやってきて鈴木さんを観た人は皆息を飲む。大人の女性がなぜ一人ですべり台を滑っているのかと考える前に、現実ではない何か尊いものを見たような気持ちになり、これまで生きてきた人生を花束で飾られたように目を輝かせ、気づけば手を合わせている。
 きっちり十回鈴木さんは滑る。九回でも十一回でもない。早朝のジョギングに来た人やチワワ犬の散歩に来た人などがすべり台を滑る鈴木さんを見て首を傾げるが、なぜ滑っているのかと尋ねる人はいない。それは鈴木さんが何か神聖な儀式をしているようであり、それを邪魔してはいけないと考えるからだと思われる。例えば神に捧げる舞踏をしているような、悟を開こうとする修行僧のような、そんな雰囲気が鈴木さんにはあり、それを侵すことはできないと考えてしまうからである。
 鈴木さんは公園に来るとすぐにすべり台に向かい、すぐに滑りはじめ、滑り終えるとすぐに帰って行く。どこから来て、どこに帰って行くのかわからない。毎日規則正し午前七時に来て、午前七時十分には帰っていく。雨の日も風が強い日も光化学スモッグが発生している日も関係なくやって来る。何のためにそんなことをしているのか。何かの願掛けをしているのか。病気の母親の回復を願ってしているのか、何かの資格取得試験の合格を祈ってしているのか、そんなことはいくら考えてもわからない。ただ鈴木さんを眺めていると、そんなことはどうでも良いように思われてくる。滑るために滑っていると言われてもそれが真実のような気がしてくる。
 ある日射しの強い午前七時、いつものようにやってきた鈴木さんはすべり台を滑りはじめる。どうしたことかいつもはきっちり十回滑るのだが、この日に限って十一回滑ってしまう。暑さに頭をやられ数え間違ったのか。もし九回なら後一回足せばいいだけなのだが、一度滑った数は減らすことができない。鈴木さんは太陽を恨めしそうに見上げ、膝を折り、大粒の涙を流し始める。涙はダイヤモンドの粒になり落ちてくる。涙は真空の泡になり空中を漂う。涙は悔恨の鎖となり繋がり地面に突き刺さっていく。
 鈴木さんは翌日から公園に来なくなる。そして二度と姿を見るのはいない。鈴木さんが現実に存在したのか、夢だったのか、幻だったのか、自信をもって断言できる人はいない。鈴木さんの本当の名前を知る人はいない。毎日チワワ犬を散歩させている人が、毎日ジョギングをしている人と話したとき、彼女のことを鈴木さんと呼び、それが定着したのである。なぜ鈴木さんと呼んでしまったのか、チワワ犬を散歩させている人もわからないと言う。ただ鈴木さんという名が彼女を見ていると思い浮かんだのだそうだ。なんということはない理由である。
 午前七時、すべり台に人はいない。ただかつていた人の影だけが優雅に滑っている。公園の樹々は木漏れ日をつくり、風は樹の葉をゆらし、人々は公園でさまざまな一時を過ごす。かつて鈴木さんがいたことなど人々の記憶から無くなっている。ただ影だけが毎日十回すべり台を滑り続けているが、それは誰にも気づかれることはない。影は水を入れて膨れた風船に穴を開けると弾けるようにすべり台を濡らす。影は影を生む対象を離れ、光そのものから生れるように輝き、すべり台に染みこんでいく。鈴木さんは影。影は鈴木さん。
 ある日の午前七時。赤ん坊を抱いた母親がすべり台を滑っている。赤ん坊の影は孔雀の羽のようにとても長く華やかで美しい。

 

佐々木春「リフレクト」

電気を消した浴室でお湯から半分かおを出して
薄くひらいた口から小さなあぶくを吐きだす
お湯の中のからだは屈折してぼやけてて
金魚のおなかみたいにふわふわと揺れてる

しばらくからだをお湯に馴染ませてから
まぶたを下ろして肺の空気を残らず吐いて
架空のラップトップの電源ボタンをそっと押す
滑らかな浴槽の縁に人差し指で円を描きながら
霞んだあたまに浮かぶディスプレイを眺める

タッチパネルでやさしく自在に指をすべらせて
ツールバーの履歴を上下にスクロールして
保存された記憶のいくつかのウィンドウを
左から右にかけて並列に立ち上げる
太腿を揺らして働く浮力に勇気づけられて
真ん中のウィンドウから反芻をはじめる

灰色の四角形に縁どられた情報は
映像みたいな文章みたいな
そのどっちでもないような
色彩と意味の境目をなくしたみたいな
まろやかな媒体として澱みなく流れていく

わたしはすっかり小慣れたやり方で
たまには気持ちを検索しながら
いくつかの既存フォルダに振り分けていく
ひとつのデータが処理されるたびに
チャイムみたいに軽快なシステム音がして
いつも飲みすぎるオレンジジュースが
皮膚から染みてそのままお湯に解けていく

最後のウィンドウにとりかかる頃には
水分の抜けたからだはずいぶん軽くなって
お風呂はとろみを帯びた橙色に近づいてる
のぼせたあたまはスピードを落として
わたしは同じデータを何回も再生する
繰り返すクリックにやがてエラー音が響いて
ブロックみたいなアイコンの反応がなくなる

わたしはほかにできることがないから
両手の指で濡れた髪の毛をひとつにまとめる
ファイルをディスクトップに置いたまま
電源を切ってラップトップをぱたんと閉じる
どこかの国の風景が映されたディスプレイには
そんなファイルがトランプみたいに整列してて
息を殺していつもわたしを見つめてる

わたしは目を開けて浴槽の中でからだをひねる
両手足に力を入れてぬるい液体から立ち上がり
隅々までシャワーで流してから浴室を出る
そして蛍光灯に照らされた洗面台の鏡に映った
誰かに与えられた凹凸の少ない裸に目を凝らす

 

泉水雄矢「缶蹴り」

空き缶を無防備に吸って
乾いた音
行き詰まった日には
詩を拾いに交差点へ行く

鋭角のビルに 緑の点描
リズムよくすれ違う車たちのかたわらで
植栽のパンジーが鮮やかに花弁を揺らしていた
ささやかな命
手を叩いて木々たちが嘲笑っている
そら見ろ、どだいお前には無理な話だ
むせかえるモノクロに迷いなく花弁を広げ
明確に咲いてみせる花々の矜持など

そもそも、
詩なんて落ちてなかった
詩情は容易く羽ばたいて ひとり
路肩を削る 空き缶の音だけが
しずかに肩を叩いている

快晴 もう太陽に身投げして反転
ひとり 見渡すグラウンドに立って
そうだね 缶蹴りでもしようか
あの遠い山に見えなくなるまで
足を大きく振り抜いてさ
(もうじき、夏が来るよ

行き詰まった日には
詩を拾いに交差点へ行く
紫色のパンジーは前よりも萎びて
それでも、まだ、花の顔をして
じっと私を眺めていた
(夏が

柴田草矢「石となる」

みているその
その石が
こちらをみている
その奥に
ひとつあればかずかぎりなく
みられる石はみつめている
石のみているそこで
わたしらの体が
体のように立っている
すると
石はごろりとめくばせをして
かつては
ひとの眸であったのですよ

石は石に告げている
告げられる石は告げている
その奥で
わたしらのはなす声は
石よりもしずかに
きこえる

もしも
石が石となるよりかつてのことを
みずから語りだすのなら、
わたしはそのときを
どんな体で待っていればいいのだろう。
石のまばたくそのときを
眸が石となるまで待つのなら、
みているその
その石は
きっと体のように語りだす体なのだろう。

わたしもいつかだれかの手にとられる石となる

 

吉岡幸一「田中様は石を投げる」

田中様はいつも電車に向かって石を投げる。いつもは人のいない車輪をめがけて投げるのだが、一度だけ誤って窓に投げてガラスを割ったことがある。そのときは電車が一時間半も止まり、大勢の人に迷惑をかけ、田中様は警察に捕まった。この時のことを深く反省して、石を投げるときは細心の注意を払うようになった。つまり電車が止まらないように小さな石を車輪に向けて投げるようにしたのだ。田中様は電車を悪だと言った。電車だから悪なのだそうだ。私のような凡人には田中様の言うことは理解出来ないのだが、田中様がそういうのなら電車は悪なのだろう。悪は叩かなければならない。しかし悪の電車に乗っている人間は悪だとは限らない。善の人間もきっと乗っていることだろう。その善の人に迷惑を掛けることはよくない。田中様は熟考を重ねた上で、悪である電車に小石を投げ、善人に迷惑を掛けない程度に制裁することにしたのだ。効果は乏しいかもしれない。しかし何もしないよりもマシというものだ。悪の電車に向かってどれほどの人が石を投げられるだろうか。私が知る限りそういった人は一人もいない。田中様は日になんども電車に向かって石を投げる。私も手伝おうとして石を投げようとしたが、それを田中様は止めた。私にはまだ早いということだった。何が早いというのだろうか、悪に向かって石を投げる資格が私にはないというのだろうか。尋ねても田中様は首を振るだけで答えなかった。答えは私が苦労して求めなければならないもののようだ。真理という物は容易に手が届かないものである。田中様の行為はすでに有名で、田中様が線路沿いのひらけた道に立っていると、電車の中の乗客がいっせいに田中様のほうを見る。田中様は手を挙げ答えることもある。ときどき警官が来て注意することもあるが、電車会社が特になにも言ってこないので捕まることはない。田中様は警官にいかに電車が悪であるか、自分ではなく電車を逮捕するべきだと言い寄るが、警官は戸惑うばかりで仕舞いに逃げるように去って行く。田中様は石投げを継続的に行っていたが、ある日を境にして石投げを止め、私の前から姿を消した。田中様からは一篇の詩が残されていた。

悪は善を装いながら軽やかに事を成す
善は悪と間違えられながらひたすら耐える
善悪の基準は人それぞれという子らは
真の善も悪も知らないまま育ち滅する

悪に運ばれている子らは
悪と言えるのだろうか
悪に運ばれていることを知らない無垢な子
悪に包まれた無明の子

子らは無自覚に悪に接し
無自覚に悪を成し始めるが
善を成していると誤解している
悪に善だと騙されている

子らよ
悪の乗り物から飛び降り善を成せ
悪の誘惑に負けず真理に生きよ
善の乗り物はけっして乗ることができない

二本の脚にこそ真の善が宿っている

田中様の詩は私の魂に深く刻み込まれた。田中様のいない今、電車に石を投げるのは私しかいない。私ではまだ早いことはわかっている。しかし私は私が真の善悪を知る前であっても、成すべき事を成さなければならない。田中様の代わりとして、田中様の意志を追行するのである。私は電車に向かって石を投げる。電車を止めないように注意しながら小石を車輪にぶつける。悪の電車よ。いつかその悪に気づき悔い改めるとよい。それまで私は石を投げ続ける。

柿沼オヘロ「遺影」

はじめて二重跳びができたときの風が
いま
あそこで光ったように思う
指 現れる大人の皺
排水口へ流れていくシャボンのなかで
はじめて切った風が
いま 光った

小さなロープを持つ柔らかい拳を
その通りに象るための石膏を

軽く握れば
手の平に浮かんでくる爪の文字
そんなものに刺された気がした?
七星のてんとう虫が
動かなくなっていた

手相の川に
壺が流れる
からからと
小さな音色
遺影の歯と

枯れた川の
向こう岸からくる老人に見覚えはなかったから
私はすれ違い方を分からなかった
それは水面だった頃の
焦点を結ばせない 顔をしていて

小さな手を連れ去った力を
その通りに象るための石膏を

間もなく降りはじめるだろう
空白を包む
黒い包帯のような雲だ
老人の瞳のなか
ひこばえに延びていく虹彩は暗く
辿る足あとに張った
ゼリーが揺れている

■うるし山千尋選評

 読めば読むほど読むことが難しくなる。今回は特に若い人の作品が印象に残りました。

【入選】
咲谷みわ「つつがなく」
 いつの時代なのだろう。「今の空気」とは違う、どこか遠い言葉が不思議と心地よい。幼いころ教科書のなかで出会った田舎の時間、そのなつかしさに近いなあ、と読み進めると、第3連あたりから少しずつ狂気が見え隠れしはじめる。冷静なまま何かがずれている。手紙の相手方である「あなた」はすでにここにはいない。事情があって別に暮らしているのではなく、おそらく「あなた=死者」であろうことはなんとなく想像できる。そこで気になるのがタイトルにもある「つつがなく」だ。一体「つつがなく」経過していくものは何なのだろうか。存在しない「つつがな」き世界で、抒情はどういうかたちで存在するのだろうか。面白い詩だと思った。

戸田和樹「夏を灼く」
 茄子が焼かれて焼き茄子になる。その過程を丁寧に描いている。とにかく七輪で焼く茄子がうまそうだ。一つの作品を完成させてしまう説得力がある。私なら最後の連をまるごと大胆に削り、不安定なまま放り投げてしまいそうだが、作者の求める表現は当然そういうシュールさではないだろう。「灼かれた夏」が「燃えカス」となり夜に紛れていくところまで表現して、はじめて「ぼくの萎れた夏」が終わる。ドラマチックな出来事は何も起きない日常で、どのように我が身を置くか、その淡々としたスタンスと五感すべてを使った表現力がいい。

けむすけ「手」
 「死の間際/母が自分の手をギュッと握ってくれた/利き手ではない/左手で」。全部引用してしまった。この詩が惹きつけるのは、母が利き手ではない手で握ってくれたことに、どのような意味(その人の人生や想い)が込められているのか、と考えてしまうところにある。と、考えたくなるが、実はそうではない(とわたしは思う)。人間の死という究極の非日常に接したとき、まるで関係ないことを考えてしまうことはないだろうか(この場合利き手の問題)。人間の「救いのなさ」に、はっとさせられる瞬間。「それは今考えることじゃないだろう」と思いながらも、発見してしまった支離滅裂な感情はどうしようもない。避けられない人間の業(ごう)のようでもある。

吉岡幸一「佐藤君の生死」
 500年後には日本人の姓は「佐藤」だらけになる、というニュースを見た。「佐藤君」はひょっとしたら我々の未来の姿かもしれない(詩中の「佐藤君」にとっては、過去も未来も現在も同列らしいが…)。いずれわたしたちも、「佐藤君」になってしまうのだろう。
遠回りしながら、結論ではなく、考える過程(思考の迂回・逸脱・旋回を含んだ)そのものに独特な世界を発現させている。「佐藤君」は人間という概念を、あえてまわりくどく破壊していく。いや正確には「佐藤君」を生み出した「僕」が破壊していく。この〈あえてまわりくどい〉言葉の渦に、読む者は飲み込まれていく。

むきむきあかちゃん「ゆずりあい」
 コピペ(コピー&ペースト)したように同じフレーズが繰り返される。しかも4回。かつて少年漫画で同じページが何ページも続くという衝撃的なシーンがあったのを思い出す。この詩から感じるのは狂気だ。読んでいくうちに、「自分の考え」というものが本当に存在するのだろうかと不安になっていく。どこかで「矯正」され「複製」されたものではないのか。そして集団で声を合わせて復唱する最後の場面は、「個」がひとりもいない世界を想像させる。「個」が不在であるにもかかわらず「個体」が孤独を抱え、複製され貼り付けされていく。そのタイトルが「ゆずりあい」であるのもおそろしい。

【佳作】
白川厚「自己紹介世界」
 まずタイトルがすごい。そして言葉のセレクト。「テレヴィ」「ナンシーという名前の猫」「エレクトリシティ」「朝は新鮮、夕方不安」。〈楽しい〉と〈哀しい〉が同居している詩を読むと心が躍る。「エアコンはまだつけていない/エアコンとは話せないから/梅雨が始まるよ/雨は決して嫌いではない/地面がきらきら輝くから/こんな田舎の町営住宅 隣にも田舎の町営住宅」。私たちが詩とはこういうものだろうと一般的に考えているものとはかけ離れているようにみえるが、詩というものが人間の「死」と「生」をうたうものであるならば、この作品はまさにその両方の真実をうたっている。

こやけまめ「音が海になるまで」
 「ラ♭/ピアノの白鍵に人差し指を押し付ける」。ラ♭は一般的には白鍵ではなく黒鍵だ。ピアノの調律自体が狂っているのか、ピアノを弾く「わたし」が狂っているのか。このラ♭は表情がなく蒸発しどこかへ行ってしまう。フラットという響きはどこか暗くマイナーな印象を与える。やがてドとともに風にすくわれ海になる。「指で叩けば規則通りの音が出るなんて/嘘くさくて信じられない」。そもそもこの世界は半音ずれているのではないか。「白鍵のラ♭」は蒸発して海となることにより、調律されることから解放される。束縛と解放というテーマを透明感あふれる言葉でやさしく描いている。

牟呂弓矢「厨房の先へ」
 「言葉(母語)」、「幻想(幻視)」そして「厨房(食事)」。3つのキーとなる言葉が独特な世界を創り上げている。「青空の孤独が覗いている/私もそこへ落ちてゆくのだと思った」。この最後の行は、絶望(落下)を意味するのか、それとも希望(解放)なのか、私はその両方であるような気がしてならない。言葉のフラッシュ(不自然な明滅)と行のアクセントが頻繁すぎて、全体の印象が逆に茫洋としてしまった感もある。しかし、その茫洋さゆえに重力のように最後の「落ちてゆく」感覚へと引きずられていくのだ、と考えると面白い。「厨房の先へ」というタイトルもいい。

金澤恭平「夕暮れ」
 おそらく若さとはこういうことではなかろうかと思った。「生きていること」と「生きていくこと」への漠然とした不安、そして自分はこのままでいいのか、という焦燥。「幼さが無意識に信じそうになった一日を/今更必死に掴もうとした僕の手は/生温かい体温を帯びていた」。この「体温」がいつの日か冷めてしまう日がくるだろう。そのときに書かれるべき詩(未来)がまだこの作者には残されているということが純粋に羨ましい。そしてそのときまでに書いておかねば消えてしまう詩を、今ここに残せたことは、詩人にとってひとつの重要な出発点になると思う。

岡久生「雨」
 「真昼の明るい川べりを歩く私」と、「暗く光る雨の夜道を歩いている私」。続く問答、そして混沌は、よろめきながら最終的には「帰り道を延々とどこまでも歩いてゆかなければならない」という諦念へと引きずられていく。「暗く光る雨の夜道を辿る私の/靴の中の湿りが厭わしく思われ/真昼の日射しの中を/帰り道は延々と遠ざかる」。しかもその道はどんどん遠ざかっていく。「人間である」という時間を考えるとき、誰もが感じるあの途方の無さ、無力さを冷静にうまく掴みとっている。

■浜江順子選評
 孤独を抱えた者たちの詩が毎夜、ヒラヒラ飛んできて、私の脳内に留まり、何やら叫んでいる。それらは脳のある所定の位置に溜め置かれ、一定量に達すると、脳に小さな穴が開き、そこから水蒸気のように白い気体が発せられる。さながら、蒸気機関車の汽笛のようだが、音はない。
 すると、私はなぜかそれらの孤独の発する音に元気づけられ、エネルギーをもらい、私自身の創作にも作用する。一つの循環のようなそれらはすべて無音で深夜の私の雑多なものが散乱しているこの書斎にて行われる。それは投稿欄の選者となって、4か月目の4月頃から始まり、音をたてることなく脳内の所定の位置で処理されるのである。

【入選】
露野うた「存在証明」
 「わたし」を本当はよく知らないと思っているのは誰でも同じだが、作者は「影はわたしと同じ形をしている/指でなぞれば曖昧だった輪郭が現れる/こんなに近くにわたしはいたんだ」ということに気づく。ここでのテーマは普遍のもので、なかでも「こんなに近くにわたしはいたんだ」という箇所はさりげなく人間の本質を突いていて、ドキッとさせられる。表現としては難しい言葉など一切使っていないが、それだけに心を打つものがある。スーッと読めて、ハッと驚く、そんな詩だ。

佐々木春「コミュート」
 スマホにみんな見入っている通勤の風景から生まれた一篇の短篇小説を紡ぐかのような作品だ。「相手は夜を挟んだ対岸で吊輪をつかんで移動するあの人かもと思うのは/肩まで切られた胡桃色の髪のせいかもしれない」、一気に短篇小説モードに誘うのは作者の優れた技で、読者はもうそこからその世界に入っていく。電車の進行もなにげなく取り入れ、リアル感とロマンを程よく調和させ、「わたしの意味をしるしに託して遠くの方へと流れていく」と、日常のなにげない風景を鮮やかな一篇にしている。

むきむきあかちゃん「アイママーシアン」
 17歳の作者は時に韻を踏み、ラップのように死をこともなげに軽やかに詩にしていく。青春の鬱と死の交差を自己を笑いとばしながら詩に紡いでいくさまは小気味よい。 高校生らしい「いつも連絡追って来るいらん補足」などの合間に「地球からソラへ伸びるエレべーター/乗り込んだら もうしたいな サヨナラ/君たちとちがう アイママーシアン/やし火星行ったら要らないマシンガン」など、若い語感で韻を踏みながら現代の死をシュールかつ軽快にうたっている。さらなる研鑽を望む。

熊倉ミハイ「またぐ朝」
 「またぐ朝」は、人間誰にでもある悪魔のように胸に忍び寄る日々の不安ということがテーマの詩だ。出だしの「夢の中で人を殺してしまった」とあり、どういう展開になるのかと読み進めていくと、「凶器は/この/胸いっぱいの/不安です」というところで、はたと納得する。(そうだ、不安なのだ。不安こそ人を殺すのだ)と、いまさらながらに思い当たる。最後の「私は何の罪に問われるのか/二人の天使が/首を傾げる」もロマンチックな着地ではあるが、その裏に悪魔が潜んでいるのかもしれない。

吉岡幸一「鈴木さんは滑る」
 毎日、児童公園のすべり台をきっちり10回、滑っていく「鈴木さん」が鮮やかに目に浮かんでくる。なぜ、滑っているのか。なぜ10回なのか。そこには何も描かれていない。それゆえどこかミステリアスな趣きさえ感じさせ、ときめきの風を吹かせる。人間も持っている底知れぬ悲しみを秘めた神秘の世界をチラッと垣間見せる作品である。そこにあえて技巧的ないいまわしがないだけに、ストーンと胸に落ちる。最後の「ある日の午後七時。赤ん坊を抱いた母親がすべり台を滑っている。赤ん坊の影は孔雀の羽のようにとても長く華やかで美しい」は、いらない。

【佳作】
柿沼オヘロ「モリオン」
 心の奥の奥のつぶやきをモリオン、黒水晶を媒体に進めていくという技法は美しく、神秘的である。「私はまだ/自分との距離を測れなかったから/小指ひとつ分の力を/絶えずずらし続けていた」は、巧みな表現だ。少年期の危うい心模様に思い巡らすこの詩は、「モリオン/私たちはたがいに/だれを映し合っていたのだろう」の表現のように、心の中を彷徨い続ける。モリオンはこの詩の中核として、絶えずそれらの表現を揺らし、拡散させ、輝かせている。しかし、どこか決め手に欠ける気もする。

高橋日佳「器」
 発想の展開がうまい詩である。「天使の器」→「祈り」→多分、ゲームの主人公「イノリ」→「大あくび」。天使の器とはどんなものなのか、想像が羽ばたいていく。作者は「天使の器」には、イノリも私も嵌らないという。いったいどんな形をしているのか。想像は膨らむ。自ら「祈り方をわすれた皆が/ただ機械をまわしている/器は待っている/余白が埋まる日を」と、その内容の世界を語るのだが、最後は「途方もない昼間に/大あくびをした」と、しゃれのめしてみせる。外し方が巧みだ。

卯野彩音「月夜の石」
 一つのアレゴリーとしての「月夜の石」であるようだ。二人の関係は「初めて会った夜の底」としか、描かれていない。「何これ? 宝石かも まだだれも発見したことがない宝石/宝石じゃないよ きっとただの石」。結果、「少女が石を捨てた/少年が石を拾った」と二人の行動は分かれる。少年は夢見ることで、大きな宇宙の端っこに関わることになる。最後の連、「月は少年の掌のなかで煌めく石を見ていた/月は夜の頂で口笛を吹きながら 太陽が見た夢の続きを見ていた」と締めくくられる。もう少し長くしても良かったような作品である。

鈴木日出家「正しい鏡」
 「正しい」とはいったいどういうことかを「正しい鏡」というひとつの象徴を通して問う、そんな詩だ。ここでは、「正しい」というものの持つ傲慢さに対し、「そのとき、ぼくらは正しい鏡を落としてしまった」と展開を見せる。最後は「上下が反転する鏡が正しいと言い始めるぼくらが出てきて/ぼくらはこぞってあたらしい鏡を捜して回った」で締めくくられる。「鏡の国のアリス」のようにもっと異世界まで飛んでいける魔訶不思議な鏡としても捉えると、さらなるワクワクの飛翔が見える気もする。

こやけまめ「音が海になるまで」
 ピアノの音の世界を違った観点から描いた作品。最初の「ラ♭」という表現から始まり、音の世界への期待をみなぎらせて詩は進行する。次第にピアノの音に潜む真実を問っていく。「ピアノの音は透明になるまで/本音を隠しているのだ/だから海に飛び込むときには/ジュッ/と複雑な音をたてて そういう音になって/自分のほんとうの音になって/恨み事を奏でるのだ」と続き、ピアノの音と心の内面をクロスさせていく。恨み事を奏でたピアノの音をオノマトペとしてさらに続けてもよかった。

■雪柳あうこ選評

 詩というものは魅力の方向性が多様であり、真に自由なものなのだと、選者2期目にして痛感しています。ひかる一行・一連を有する詩は本当にたくさんあり、もっと多くの詩に選評を送りたい気持ちになります。ただ、その一行・一連の見事さをどこまで研いでいるのか、あるいはひかる一行・一連にどう重きを置きながら全体を整えているのかが、人の心に強い印象を残すかを左右しているように思います。それは、抽象度の高い詩においても、具体性のある詩に置いても、同様だと感じます。

【入選】
佐々木春「リフレクト」
泉水雄矢「缶蹴り」
柴田草矢「石となる」
吉岡幸一「田中様は石を投げる」
柿沼オヘロ「遺影」

【佳作】
こやけまめ「音が海になるまで」
三好由美子「バージョンアップの夜」
むきむきあかちゃん「ゆずりあい」
メンデルソン三保「砂漠」
芦田晋作「あかるいエレベーターのなかで」
むらやまちあき「レモンとおじさん~連なり、生まれる~」

【選外佳作】
蒼ノ下雷太郎「こたえ」
狐針ヶ「私が捨てたもの」
妻咲邦香「カレンダー」
械冬弱虫「Duchess of」
戸田和樹「夏を灼く」
三刀月ユキ「朝が来るまで」

【入選】
佐々木春「リフレクト」
 風呂の中という自分の身体と向き合う場所において、脳裏で展開される架空の「ラップトップ」。わたしたちが生身を最も意識する場所できわめて無機的なものが脳裏にあるという対比的な構造で、わたしたちがデジタルに支配されながらもそれらと共存しながら在るということを、入浴という事象に即して描き出しています。風呂や水分に関わる描写の美しさも素晴らしいです。最終連に近づくにつれ自分の身体のへと意識が戻っていく様も見事です。

泉水雄矢「缶蹴り」
 一連目の「詩を拾いに交差点へ行く」という1行で心掴まれました。書きたいものがあるようなないような、そこはかとない気持ちで周りを見渡す時のまなざしこそが詩情に満ちているのだと、この詩は教えてくれるようです。そして「詩なんて落ちてなかった」という展開ののちに、最終連、まだそれでも何かを探してしまう物書きの心持ちまで見事です。詩はまわりの何かが書かせてくれるものなのだと、最終連の「私」のまなざしが暗示しているように思います。

柴田草矢「石となる」
 路傍の石の一つ一つが、かつては人の瞳であったとしたら。自ら動くことのできない石がこちらを見ているとするところから始まるこの詩は、「石はごろりとめくばせをして/かつては/ひとの眸であったのですよと/石は石に告げている」と、やがて静かにこの世の真実を打ち明けてくれます。律されたことばによる語りには、独特のリズムと心地よさがあります。わたしたちもいつかはあの石のようになる、誰かに手に取られるという生死と未来を暗示することで、石の沈黙が雄弁な深さある眼差しそのものであることを感じとらせてくれます。主体と客体の捉え方、その描き方の双方が素晴らしいです。

吉岡幸一「田中様は石を投げる」
 情報過多な世の中で、わたしたちは何を信じればよいのでしょうか。この詩に登場する「田中様」は、一見それが悪に見えることであっても実行し、己の信ずるところを貫き通します。決して世の中的には褒められた行為ではないことを貫く人を描き、ともすれば読み手に誤解を与えかねない危うさもあるこの詩ですが、人が抗しがたいものに対して声を上げざるを得ないことやその方法といった「信じる」という行為の諸側面を描き出すことに成功しているように思えてなりません。散文と改行詩のバランスと位置関係も印象よく仕上がっていました。

柿沼オヘロ「遺影」
 「はじめて二重跳びができたときの風が/いま/あそこで光ったように思う」美しく詩情に満ちた冒頭には、どんな読み手も心奪われてしまうでしょう。幼くして命を絶たれた生のはかなさを象ることを試みた詩だと思いますが、この詩の比喩はことばの意味を超えて、それ以上の喪失感と慕情を読み手に伝えてくれます。私とすれ違う「死」の描き方が素晴らしいと感じました。予感、取り返しのつかなさ、そして生を象り残すこと。そこに凝る想いを美しく言葉を研いだ比喩で丁寧に描き、見事に昇華させている秀作だと感じます。

【佳作】
こやけまめ「音が海になるまで」
 「指を離す前に/ピアノの音は蒸発して/どこかへ行ってしまう/例えば海へ/そう、海になりたがっている」という表現の美しさに惹かれて読み進めていくうちに、詩は次第に力強い声になっていきます。生まれた音が平均律を超えた音になって海に飛び込んでいく様子は、世の不条理に抗する人々の声なき声も思わせます。わたしたちはことばによって表現するけれども、同時にことばにならないものを抱えて生きざるを得ないことを強く思わせてくれる詩でした。蒸発の音は、もう少し違う表現でも面白いかもしれません。

三好由美子「バージョンアップの夜」
 使い古され刷新されるOA機器たちの悲哀を、どこか淡々と、かつ軽快に描いています。しかし、その中に「派遣切りのお姉さん」が出てくるように、人も機械も代替可能な世界に生きているわたしたちの現代が暗示されています。社会を回している彼らの尊い仕事は不意に絶たれてしまうという理不尽さが、「OA機器の目にも涙」として描かれる様には、悲哀だけでなく批判的精神とユーモアを同時に感じます。もし叶うなら、終わりは「ごきげんよう」でなく別の角度から描くと、より前半がより活きるのではないかと思いました。

むきむきあかちゃん「ゆずりあい」
 教室での授業、そして正誤のあり方。正しいとされる文言を繰り返す様子など、人が学びの場で何をしている/させられているのかを考えさせられる詩です。正しさや間違い、そしてそれだけではないものも含みながら、誠実さと皮肉の両方をもって描いていると感じました。ことばの使い方が滑らかで、「ゆずりあい」の定義にもはっとさせられます。ただ、4回くり返される文言の中のどこかにもし一工夫あったらもっと面白い詩になるかもしれない、とも感じました。

メンデルソン三保「砂漠へ」
 わたしたちは、日々意識せずとも命の最後に向かって歩いています。不意に思い立つように死を想起すること、老いるということ。そのすべてに通じるものとして描かれる「砂漠」は、命の終わりの際にある多様なものを含みこむ海のようにも思わせてくれます。「砂漠はわたしから過去のもろもろを抜き去り/生かされている今日をわたしに手渡す/なんという悟性 なんという贅沢」という部分は、生老病死の社会的通年とは異なる豊かさを確と知る筆者のまなざしから生まれた、真なる言葉だと感じました。

芦田晋作「あかるいエレベーターのなかで」
 エレベーターに乗りあわせると何となく見つめてしまう移り変わる階数表示。乗り降りする人々の様子に、数字では測れない人生を預けているように読みました。一緒に見つめる「あなた」がいるからこその孤独や、次第に上がっていくエレベーターの示す数字は、積みあがる日時や年齢、そして人と人との関係性も暗示しており、戻れないことがそこはかとないかなしみとなって伝わります。立ち尽くすその先まで示唆されるともっと良くなるように思われました。

むらやまちあき「レモンとおじさん~連なり、生まれる~」
 「えっ、ちょっと、めちゃ面白いんですけど!?」というのが読了後の第一声でした。おじさんとは、レモンとは。この詩の持つ世界観の独特さが素晴らしいです。連作である1作目もいいのですが、2作目である本作はおじさんとレモンの様子を具体的に想像できるユーモラスな描写が続くことで、読み手をぐいぐいと惹きつけます(ベビーカーをよけるところは面白すぎて笑ってしまいました)。おじさんとレモン以外の比喩をもう少し工夫されると詩がさらに光るように思いました。

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