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東日本ゼミ

吉野弘と黒田喜夫の山形「現代詩ゼミナール〈東日本〉in酒田」

吉野弘と黒田喜夫の山形「現代詩ゼミナール〈東日本〉in酒田」

 十月二十一日、台風21号襲来の前日、天候不良にもかかわらず、「現代詩ゼミナール〈東日本〉in酒田」は盛況であった。集客予想を若干上回り、会員参加者45名、一般参加者25名。総勢70名。首都圏のみならず、遠路、兵庫、大阪からの参加者もあり、地元運営側の感激はひとしおであった。
 司会進行は、酒田の詩誌「シテ」同人の相蘇清太郎。一色真理理事の開会の挨拶に続き、秋亜綺羅理事長が、新藤凉子会長からのメッセージを読み上げた。新藤会長のメッセージは、過去に故粒来哲蔵氏と共に講演に訪れた山形の思い出などを含む真情溢れる内容だった。続いて、山形県詩人会の高橋英司会長が地元代表の挨拶で、なぜ酒田市での開催なのかについて話した。
 プログラムは三部構成で、第一部では、吉野弘をめぐって、万里小路譲の講演と近江正人、いとう柚子両名の吉野作品についてのスピーチだったが、このコーナーでは、音楽とのコラボレーションによる吉野弘の世界を演出した。万里小路自身がサックスとフルートを演奏し、ギターの伴奏に合わせて、阿蘇孝子が朗読を行った。
 万里小路譲は、吉野弘のヒューマニズムはニヒリズムからの転位であるとした。詩人の誕生は、その境遇と無関係ではなく、「負から正を志向しながら裏から表を見通す転回視座を獲得したこと」を説いた。即ち、吉野弘には、生死に関わる体験が四度ある。幼児期に赤痢に罹り、生死の境をさまよう。12歳の時、母を亡くす。19歳の時の敗戦体験。さらに24歳の時の結核罹患と胸郭成形手術。そして、帝国石油に就職後、商品労働者としての危機を強く感じただろうこと、「労働組合の専従役員になるなど反抗的人間」としての歩み。吉野弘のやさしさ、あたたかな眼差しは、その人生体験に由来しているとする。阿蘇孝子の朗読によって採り上げた詩は、「刃」と「或る位置」。
 近江正人は、吉野弘が保持する「市井のつつましい生活者(労働者)の視線」に注目しながら、とりわけ詩「生命は」を採り上げ、「生命はもともと不完全であり、自分自身では完結できない、だから成熟のためには『他者』が必要であるという認識」、そして「相互に欠如を補い合って新たな世界を実らせるという弁証法的な思考が成立する」と論じた。
 いとう柚子は、吉野弘の詩集すべてに、樹木をテーマやモチーフにした作品が収められていることに注目し、「木々の姿や生態が生身の人間の在りようになぞらえられる」のが特長であるとし、とりわけ『北入曽』以降の作品に色濃く読み取れると捉えた。
 第二部は、黒田喜夫について、まず、木村迪夫が朴訥とした語りで、黒田喜夫に兄事し交流を持った経緯を述べた。サークル詩誌「詩炉」(安食昭典主宰)を通して交流を深めたが、実際には三度しか会っていない。都営住宅に訪ねていったこと、入院中の病院に見舞ったこと、そして最後は死去の場であったこと。思想的には、社会変革を目差す同志的関係で、共に幻の理想郷を夢見ていた。青年期の木村は、「村の変革を夢み」、黒田喜夫の影響を受け、詩を書き続けて来た。
 続いて、高啓は、黒田喜夫の表現方法について論じた。これまで、黒田喜夫は、飢え、スターリニズム批判、土俗的な思想性といった紋切り型の論じられ方をして来た。それでは不十分である。演劇的な手法、ドキュメンタリー映画のような表現が大きな特徴であるとし、「ハンガリアの笑い」「空想のゲリラ」「毒虫飼育」を採り上げ、なかでも「毒虫飼育」を最高傑作であるとした。朗読を担当した阿蘇孝子の、セリフ部分の声色を変えて発した詩行は鮮烈な印象を残し、朗読パフォーマンスとしては圧巻であった。
 この後、質疑の時間を取り、聴衆から、吉野・黒田について、それぞれ質問があった。
 第三部の自作詩朗読は、隣県から招聘した成田豊人(秋田)、清岳こう(宮城)、鈴木良一(新潟)に加え、地元山形から、戌丸ぜの、金井ハル、阿蘇豊が、それぞれ自身の個性を発揮した朗読を行った。
 閉会の挨拶を、山形県詩人会事務局長の松田達男が行ったのが午後五時十分。ほぼ予定時間通りとはいえ、内容を盛り過ぎた企画の感があり、時間超過を抑制しなければならない場面が多々あった。ゼミナールなのだから、もっと時間を取るか、テーマを絞ってじっくり議論すべきだったというのが反省である。(文中敬称略、文責・高橋英司)

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