研究活動・親睦

東・西日本ゼミ、新年会

●西日本ゼミナールin滋賀2018

●西日本ゼミナールin滋賀  苗村吉昭氏、山本竜門氏講演 写真左から苗村吉昭氏、山本竜門氏  二月十八日、まばらに雪の残る近江八幡で「日本現代詩人会・西日本ゼミナール滋賀」が開催された。会員五十九名、一般五十一名、総勢百十名もの予想を上回る参加があった。寒さ厳しい折、遠方からの参加者もあり盛況であった。  司会進行は近江詩人会の石内秀典。新藤凉子会長の開会の挨拶で始まり、共催の近江詩人会会長竹内正企からも挨拶があった。  新藤会長は前日から近江八幡に来られ、歴史と淡海文化の香る街並みを見てまわられた。そして 「現代詩はまっすぐに心に響く書き方から離れて難解になってしまった。昭和二十五・六年頃には市井の人々が中原中也や島崎藤村の詩を口ずさんでいた。現代詩の一篇でも一節でも口にされているだろうか?」と危機感を述べられた  プログラムは二部構成で第一部では「失われた現代詩への信頼を求めて  ―大正期の民衆詩派からの投射」の演題で苗村吉昭氏(詩人)の講演が あり、次いで 「詩、木を彫るごとく―NHKこころの時代から」の演題で山本竜門氏(仏師・詩人)の講演があった。また竜門氏が彫られた仏像も展示され拝することができた。第一部の最後にライアー演奏が浅山泰美氏(詩人)らにより演奏された。第二部は懇親会となり地元近江八幡混声合唱団の歌を聞きながらの歓談となった。  第一部の苗村吉昭氏の講演は新藤凉子会長の現代詩への危機感に呼応して大正期の民衆派詩人の詩などを取り上げられた。 「大正期に民主的な思想が伝えられ、日本でも民芸運動と連動して民衆派の詩人が台頭してきた。」と歴史的背景の説明の後、象徴詩の書き手である北原白秋と民衆派の白鳥省吾との論争を詳しく紹介された。 「民衆派詩人は平明な言葉・自由な韻律で現実を描いた。それは思想的にはヒューマニズムを目指していたと言える。民衆詩は口語・日常語が用いられ拡がったが、無技巧から生硬な言葉で表される事もあり、プロレタリア詩やモダニズム詩の人々から反論された。  この論争を含めて考えられることは平易な表現であっても詩の技術を向上させることによって、深い内容となる。その働きかけに現代詩の専門誌や詩の教室が重要な役割を持ち、一般読者にすぐれた詩を推奨し続けることが現代詩の回復に資する」と述べられた。  最後に『くちびるのかたち』という散文詩の朗読があった。交通事故で突然こどもを失くされた、いちのせまりえさんが何年も後にかくことのできた作品だ。そこには民衆派詩人の百田宗治が「詩はいつも心をあらわすべきだ」と言った心が確かにある。苗村吉昭氏はこの「心」という言葉は「感動」におきかえられるとされた。  そして同じように幼子を失くされた苗村吉昭氏はその時、次の講演者の山本竜門氏にお願いして刻んでもらった地蔵菩薩に癒された心情を吐露された。  次いで講演された仏師であり詩人の山本竜門氏は民芸運動の柳宗悦や河合寛次郎の弟子方との縁から木彫りをはじめられた経緯などを話された。  「まず滋賀県の米原の上丹生という山深い地で焼杉彫刻の技術を身につけ た後、亡き恩師へ仏像を手向けたことから仏像を彫る修行に邁進していった。詩との出会いは昭和四十七年に滋賀県文学祭に応募、入選したことで近江詩人会に参加するようになった。そこで大野新さんや中江俊夫さんと出会い視界がひらけた。  郷里の鳥取に帰ることになり大野新さんの勧めで出した詩集『上丹生』が新聞に取り上げられた。  郷里倉吉では彫った仏像をおさめる所として様々な人々のたすけがあって『集仏庵』が完成した。昨年三月「NHKこころの時代」のインタビューを集仏庵で受けた。今も鳥取倉吉の町おこしにも一役買っている。」そして、夏目漱石の「夢十夜」を引用し仏像を彫るには木の中から彫り出す思いで対峙するが、同様に詩も心の中から彫り出していくのだと締めくくられた。  閉会の挨拶をされた一色真理氏は「琵琶湖の水面下の豊な世界があり土地の霊が詩人を育てる」と簡素ながら素晴らしい言葉で締めくくられた。(近江詩人会 吉中桃子)

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