研究活動・親睦

各地の声・各地のイベント, 東日本ゼミ

現代詩ゼミナールinぐんま、各地のイベントから

現代詩ゼミナールinぐんま 新延 拳

講演する 藤井 浩氏

朗読「笑う猫の会」関口将夫氏

榛名湖より榛名山を望む

竹下夢二伊香保記念館

榛名まほろば現代詩資料館

前橋マンドリン楽団


 二〇二三年五月二七、二八日に群馬県前橋市を中心に、同ゼミナールが開催された。地域におけるゼミナールは、4年ぶりとなった。日本現代詩人会発足70周年記念として、東京を除く全国7か所で計画されていたものが、プレイベントの三国を除き、すべてコロナ禍のためにやむなく中止せざるを得なかったという経緯があったからである。各地域とも、相当な準備をしていたので、まことに残念なことであった。
 よって、今回の群馬におけるゼミナールは、満を持してということになったが、地元群馬の多大なご尽力により、また天候にも恵まれ、成功裡に終了したことはまことに幸いなことであった。遠方からのご出席もあり、参加人数は、八九名となった。
 五月二七日
① 前橋文学館に集合。
ボランティアの方からのレクチャーを受け、展示を見学。萩原朔太郎につき学ぶ。
② 群馬会館において式典。
 ㋐朔太郎研究会幹事長の藤井浩氏講 演 『朔太郎と「郷土」』
 ㋑マンドリン演奏「前橋マンドリン楽団」
 ㋒朗読「笑う猫の会」
③ 懇親会
 五月二八日
① 伊香保竹久夢二記念館見学
② バスにて榛名湖畔移動・散策
 希望者別途、榛名まほろば現代詩資料館の見学
 二日目は、榛名湖に向かう道すがら躑躅の花が道々を覆い、野鳥の鳴き声がしきりであった。ロープウェイで榛名山の頂上に登ったり、そよ風に吹かれながら湖畔を散策するなど、初夏の高原を大いに満喫した。現代詩資料館では、詩についての有意義な議論が活発になされた。

〇藤井浩氏の講演内容
 「朔太郎と郷土」というテーマはいろんな人が書き語ってきたが、本格的に研究されているか疑問に思っている。むしろこれから始まる大きなテーマではないかと感じている。
 「月に吠える」、「青猫」は世界的な
評価を得ている。地域を越えた普遍的な価値のある詩集だという評価は定着している。これらの詩のベースには郷土がある。前橋にとどまらない、心の郷愁、ノスタルジア、原風景という言葉を朔太郎は使っている。朔太郎は彼自身が撮った写真も残しているがエッセイ「僕の寫眞機」の中でも「僕はその機械の光学的な作用を借りて、」、「自分の心の郷愁が写したい」と書いている。朔太郎という詩人の仕事そのものは郷土ということを抜きには捉えられないと思っている。
 朔太郎は四十歳の時、妻子を伴い上京するが、彼の残した詩の九割が四十年間暮らした前橋で書かれている。彼にとっての郷土前橋の大きさが分かる。朔太郎は誤解される面も多く、純情小曲集の中の郷土望景詩を読むと、特に前橋に対して愛着と憎しみ、親しみと怒りとか、アンビバレンスな思いやネガティブな感情、そういうものが混在している。これは生まれた土地を多面的にとらえているということだ。
 私の記者時代の取材では、彼は、一切仕事につかず生活能力は全くなかったので、ああいう人間には育つな、という考えを持つ人も多かった。そうしたことが、郷土に対して憎しみや怒りの表現に繋がっていくと思うが、そればかりではない。
 朔太郎は家にこもっていたのではなく良く歩いた。自宅から新前橋あたりまで行き、帰って来る経路だが、ゆっくり歩けば半日はかかるコースである。
 伊藤信吉は「郷土望景詩をめぐって」という本で「郷土望景詩を分類すると基本的には激越の詩と哀傷の詩の二つに分かれる」とする。激越の詩も哀傷の詩もその多くは朔太郎の散歩コースにあることが分かる。「白い目で見られて唾を掛けられた」ということばかりではない。朔太郎とすればこれらを混在させ、きれいごとで終わらせない、ということで解釈すべきであろう、というのが伊藤信吉の分類である。「波宜亭」は唯一の恋愛詩であり郷土への愛着と拒否の両面の感情、そう言ったものが郷土望景詩に込められている。
 また朔太郎はマンドリン楽団 ゴンドラ洋楽会を作り、それに係った人たちは高崎の群馬交響楽団のもとになっている。朔太郎は自分は白眼視されたと言いながらも、先駆的な文化活動を仕掛けたそういう人であったとも言える。詩を読むだけではわからない一面である。
 「郷土望景詩」は大正一四年朔太郎が東京に本格的に住み始める年に発行された。「純情小曲集」や昭和九年出版の「氷島」については評価が分かれる。激しく批判したのは、後に研究会四代目会長の那珂太郎だった。後に批判した理由について当時「月に吠える」や「青猫」があまりにも素晴らしいので、他のものが付随的に見えてしまったと言っている。その後思考を継続する中で少しずつ評価が変わり最終的には朔太郎の詩業の中で大切なものであったと結論付けている。

(講師・藤井浩氏は上毛新聞の記者時代、朔太郎生誕百年に取材担当。その後様々な関わりを持つようになり、現在「朔太郎研究会幹事長」)


各地のイベントから
山形県詩人会
 現代詩講演会報告     高 啓

講演する 佐々木洋一氏

 山形県詩人会は二〇二三年四月二三日、山形市の遊学館で総会とともに、記念講演会を開催した。講師は宮城県詩人会会長の佐々木洋一氏。
「未来ササヤンカの村について~十代からの詩の歩みを振り返りながら~」の講演要旨を報告する。
 黒田三郎の詩に「紙風船」がある。私は若い時、ある女性に恋するも思いが伝わらず、気づくと自殺の名所にいた。その時「落ちてきたら/今度は/もっと高く//打ち上げよう」の詩が浮かび思いとどまった。詩には力がある。
 私には、詩の原点となる出来事がいくつもあった。私が育った栗駒は鉱山や馬市で繁栄した近代的な街だった。哀愁の曲が流れ、サーカスまで催された。雄鶏が捌かれ、鳩が襲われる殺戮を何度も見た。生と死を直視し、せつなさを感じたことも私の詩の原点になっている。
 父の母の実家が栗駒。父母の生まれは国後島で引き揚げてきた。私は、母親のしなびれた乳房(ちちふさ)を咥えて育ったマザコンだ。学校の担任が女性だと成績が上がった。
 戦後、父は栗駒ダム建設に従事し母は駄菓子屋をやったが家は貧しかった。友達が自転車通学する中、自分一人中学校まで歩いて通った。長い道のりを歩く中で詩が生まれた。詩を書き始めたのはこの頃だ。物に執着しないが、レコードプレイヤーだけは買ってもらった。ベルレーヌやヘッセの詩集の付録のソノシートを聴き夢想するのが至福だった。二一歳で最初の詩集を出した。詩集を出すたび、その時々の原点が表出されていく。
 第三詩集「未来ササヤンカ村」の「ササヤンカ」とはささやかからの造語だ。詩を通して心がつながる理想や願いがこめられている。今読むと気恥ずかしいが、この詩集を今も引き摺っている。
 詩には力がある・・・今はそうは思わない。今、詩誌「ササヤンカの村」を発行し原点に立ち戻ろうとする自分がいる。かつて詩を書き始めたころ、無謀にも川崎洋の「櫂」に入りたいと手紙を書いた。丁寧な返信には、「詩は書くか書かないかそれだけだ」とあった。まさしくそう思う。これまで自分を詩人だとは言ってこなかったが、これからは詩人としてやっていこうと思っている。


「2023年 埼玉詩祭」 埼玉詩人会理事長 宮澤新樹

講演する 下川敬明氏

 埼玉詩人会主催による「2023埼玉詩祭」が「詩の地平を広げて」をテーマに5月21日、さいたま文学館(桶川)で開催され、会員や招待者など約60人が参加した。
 第一部では埼玉詩人賞の贈呈式が行われた。詩集「足もとの冬」で、第29回埼玉詩人賞を受賞した里見静江氏に賞状と副賞が贈呈された。里見氏は「夫が亡くなった後、コロナ禍で詩の勉強会が出来なくなりモヤモヤ感がたまったが、突然言葉が降りてきて詩集を出すことを思いついた。」と述べ、受賞詩集から2編を朗読した。
 第2部は、「第2回MYポエムコンクール」で埼玉県知事賞を受賞した埼玉県立松山女子高校3年・西リオさんとさいたま市立三室中学校3年・原田みつきさんが受賞作を朗読した。このコンクールは世界3大奉仕団体の支部・埼玉キワニスクラブと埼玉詩人会共催の社会貢献事業である。
 第3部では、日本現代詩人会会員・下川敬明氏が「詩の領域を広げるためにーオクタビオ・パスを読みながら」をテーマに講演した。
 オクタビオ・パスはメキシコの詩人でノーベル文学賞受賞者。下川氏はパスの詩「二つのからだ」「きみと」「手で触れる」「マイスーナ」を紹介しながら、それぞれの詩の主題であるエロティシズム、生と死、孤独や詩の構造等を解説し、読み・書く詩の領域を広げる手掛かりやヒントなどを考察した。また大岡信の詩「さわる」や自作詩「抒情的なマカロニ語―サラダ」「廃墟の空に」も紹介し、「この講演を聴いた方の新たな創造への意欲、創造力のはたらきを刺激することが出来たら幸いである」と語った。
 一般には馴染みの薄いメキシコの詩人オクタビオ・パスの紹介や詩の考察についての講演は今回の詩祭のテーマ「詩の地平を広げて」に沿った内容であり参加者の視野を広げ創造力の刺激となる良い機会となった。
 新型コロナ対策も緩和され日常生活が戻りつつある中で開催した今年の詩祭は、昨年よりも参加者が増え、主催者側としては喜ばしい限りであった。


日原正彦氏が講演 岐阜県詩人会総会にて 岩井 昭

講演する 日原正彦氏

 岐阜県詩人会第11回総会は、6月4日㈰午後2時よりJR岐阜駅構内のハートフルスクエアーGにて開催された。頼圭二郎会長からようやく平常の生活が可能になった喜びと、顔を合わせて詩を語り交流できることの大切さが語られた後、各種議案の報告及び質疑応答が行われた。次いで来年度に第39回国民文化祭が岐阜県で、詩部門は養老町を会場に開催される為、その準備と体制について話し合った。
 その後、日原正彦氏が「詩と音楽について(別れをテーマに)」の演題で講演された。その要旨を紹介します。最初に「惜別の唄」の由来と解説で、惜別の歌は戦時中に作曲された中央大学の学生歌であり、当時中央大学の学生であった藤江英輔が作曲した。歌詞は島崎藤村の詩集『若菜集』に収録されていた「高楼」に基づいているとして、中央大学の学生歌「惜別の唄」と島崎藤村の「高楼」の資料、レコード化された小林旭の「惜別の唄」を実際に聴きながら、万葉集以来の和歌の形式を支えている音数律構造について語られた。
 次に立原道造の詩集『萱草に寄す』より詩「わかれる晝に」に触れて、実際に音数律を改作してみた作品と比較しながら、現在の詩においての音数律との関係と課題について、又、立原道造の詩の独特の音楽性について話された。
 詩は意味やイメージや喩などを介して感じる。詩は言語であるから詩の音楽性といっても間接的なものである。音楽は直接的に心を奪い、癒やす。音楽は言語ではない、敢えて音楽の言語といってみると、それは透明な言語、あるいは無限の言語ではないか。音楽は楽、音を楽しむ、まず楽しめというようにできている。文学は学、学=知、知性、詩には批評性や社会性、思想性がある、と講演は続いた。
 楽しむと言うことでは、自分が詩の中にいる 作品としての詩だけでなく、生活の中に詩がある 見るもの聴くもの何でも詩になる ポエジーとともにある ポエジーの中にいる音楽と詩の違いでは、詩人はどこかで音楽の透明な言語に憧れている。音楽家もまたどこかで詩に憧れている。等、印象深くこころに残った。
 最後に、ショパンの練習曲10―3(通称『別れの曲』)を聴いて講演は終了したが、「詩を生きる」をベースにした熱い講演だった。

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