研究活動・親睦

講演

●『斎藤茂吉について』 小池 光氏 講演ノート 夏目ゆき

講演する 小池 光氏


◆茂吉最後の歌集『つきかげ』
 【斎藤茂吉最終歌集『つきかげ』より小池光抄出】という印刷物を小池氏がご用意くださり、出席者に配布された。斎藤茂吉の人となりと、ニ十首の短歌を紹介する形で会は進んだ。
◆『つきかげ』は遺歌集である
 茂吉の最後の作品になる『つきかげ』は、門弟たちが師を偲んで、茂吉の死後一冊にまとめたものである。こういったものは遺歌集(いかしゅう)と呼ばれ、短歌の世界では今でも盛んに行われている。遺歌集が流通しているのは短歌だけで、詩、俳句の世界ではないように思われる。
◆年号と年齢が書かれている理由
 歌集には、各歌の制作年と当時の年齢が記載されている。書いた年がどのような時代であり、日本の社会背景がどうであったかを知ることで、歌をより深く理解することができる。例えば、昭和二十二年の十二月に茂吉は疎開先の山形から東京に帰ってきた。二十三年の東京は、戦争で敗北し焼け野原であっただろう。茂吉は七十歳で亡くなるため、六十六歳という年齢は彼が亡くなる四年前を指している。このように年号と年齢をセットで読むことが、短歌を豊かに読む為に重要なのである。ここが短歌と詩の大きな違いだろう。
 ここからは、ひとつひとつ作品を読んでいく。いくつか紹介したい。
昭和二十三年 六十六歳
人間は予感なしに病むことあり癒(なほ)れば楽しなほらねばこまる
 誰でも病気になる。治らないとどうなるかといと、それは困るとしか言いようがない。こんなことを茂吉は平気で歌う。昭和二十三年の東京は焼け跡、そんな中で、人を食ったような表現をするのが茂吉ならではで面白い。
われ病んで仰向にをれば現身(げんしん)の菊池寛君も突如としてほとけ
 茂吉はあおむけで寝ていて、突如としてほとけとなった菊池寛は立っている。そこに縦横の関係が鮮やかに出ていて、空間の造形が感じられる。また現身は(げんしん)とルビがふってある。歌人のこだわりを感じる部分である。茂吉というのはルビまで読まないとだめなのである。
昭和二十四年 六十七歳
わが家に隣れる家に或る一夜(ひとよ)やむに止まれぬ野犬子を生む
 戦後復興というのは犬も人間もやむにやまれず働いて子供を生んだ。戦後のアナーキーなエネルギーを感じる歌である。日本人の強さを感じる。
目のまへの売犬(ばいけん)の小さきものどもよ生長(せいちやう)ののちは賢(かしこ)くなれよ
 昭和二十四年、戦後四年もたつと、既に犬を売るような商売が成り立つということがわかる。犬が「わかりました、ワンワン」と返事をする、そんな声が聞こえるようではありませんか。
昭和二十五年 六十八歳
暁(あかつき)の薄明(はくめい)に死をおもふことあり除外例なき死といへるもの
 これは有名な歌で、晩年の代表作である。除外例(じょがいれい)というのは茂吉の造語である。例外より迫力が出るのではないだろうか。百パーセントの造語ではないけれど、半分造語というのが茂吉の歌にはたくさんあって、そのいずれもが非常に面白い。
昭和二十六年 六十九歳
わが色欲いまだ微かに残るころ渋谷の駅にさしかかりけり
 あたかも茂吉が電車に乗っているように読ませるが、そうではない。六十九歳、寝たきり老人の幻なのである。渋谷、色欲というのは、五十代半ばで深い仲になった女弟子の永井ふさ子が渋谷の円山町のアパートに住んでいて、茂吉はそこに通っていた。そのこともイメージの中にあるのではないだろうか。非常にみずみずしい幻であると感じる。こういうふうに年をとると死んでいくのだと思う歌である。
◆最後に
「茂吉のつきかげの歌、興味があったらご覧になってください」という小池氏の言葉で会は締めくくられた。ユーモア溢れる語り口で会場は何度も笑いに包まれ、楽しい雰囲気で終了した。
小池光 略歴
1947年(昭和22年)宮城県生まれ。1972年短歌結社「短歌人」入会。1975年浦和実業学園高等学校の理科教師として就職。1978年第1歌集『バルサの翼』1979年第23回現代歌人協会賞。1980年「短歌人」編集人。1995年第4歌集『草の庭』により第一回寺山修司短歌賞。
2001年第5歌集『静物』で芸術選奨新人賞(文学部門)。2004年第40回短歌研究賞。第2回前川佐美雄賞。2005年第16回斎藤茂吉短歌文学賞。第39回迢空賞。2007年仙台文学館館長就任。2011年第3回小野市詩歌文学賞。2012年第六〇回日本エッセイスト・クラブ賞。2013年紫綬褒章。2016年第67回読売文学賞。2020年旭日小綬章。2022年現代短歌大賞。第38回詩歌文学館賞。(鈴木正樹 記)

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