研究活動・親睦

講演

峯澤典子氏 講演「詩のはじまりの育て方」

峯澤典子氏 講演
 詩のはじまりの育て方

 俳句や短歌のように定まった型を持たない口語自由詩はどのようにも書ける。それは魅力でもありますが、書くたびに詩形の必然性を書き手自身が見出さなくてはならないという難しさもそこにはあります。そしてどの形式を選んだとしても、行分け詩は単なる散文を改行しただけではないのか、散文詩はエッセイや記事などの散文と何が違うのかという問いもつねにつきまといます。つまり詩ではない文章と詩はどこが違うのかという疑問です。
 そう問われるたびに思い出すのが、フランスの象徴主義の詩人ポール・ヴァレリーの「散文は歩行であり、詩は舞踏である」という有名な言葉です。この言葉によれば、ある場面から場面へと進んでゆく散文とは異なり、詩はその場で踊ること自体が目的であると。詩は舞踏のように、そこに在る姿や動きの美しさや面白さなどを見せることも重要だということです。言い換えれば、詩の言葉は、意味内容を伝えるという義務から解放されて、意味以前のものや意味を超えたものにもなれるということでしょうか。もう一つ参考になる文章を引用します。
 「詩を書くという行為は、いうまでもなく、日常のふつうの生活における意志や感情の表現の道具、あるいは伝達の道具としてわれわれにあたえられている言語の組織から新しい生命をひきだし、そこにひとつの新しい組織を紡ぎだすところに出発点をもっている」(菅野昭正『詩の現在 12冊の詩集』)
 詩の言葉は単なる伝達の道具ではなくその姿でも人を魅了するものであり、新鮮な組み合わせによってふだん気づけなかった何かを読む人にもたらすものだと仮定します。では実際に生活のなかで感じたことをどのように詩にしていけばいいのでしょうか。詩作のきっかけとなるものを、詩の「はじまり」と呼んでみます。詩の「はじまり」は生活のあらゆる場所に潜んでいます。例えば、①人や物、出来事に対する五感の動きや印象。②人や物、出来事に対する感情や思考。③どこかで見聞きした単語や文章。④過去の体験の記憶。⑤生理的な好き嫌い。⑥他の分野の創作物からの影響や刺激など。これらには精神の明るい面ばかりではなく悩みや憂鬱などの暗部も含まれます。自分でもまだ把握できない感情や感覚の芽生えであっても捨てずに心の隅に置いておく。それらが意外な言葉を引きだすきっかけにもなるからです。
 とはいえ、何かに接したときの反応としてすぐに生まれる感情や感覚は詩の「はじまり」でしかありません。そうした詩の「はじまり」を直接言葉にするのではなく、自分の奥へいったん取り込み、さまざまな角度から観察し、温め、一度忘れ、また思い出し、見つめる。それには一時的な感情のうねりに巻き込まれないこと。なぜこんな感情が湧いてきたのか。それがどう動き、どんな色や形をしているのかなど。過去からも未来からも、全方向から眺めます。そうした工程を「意識」して辿ることが、詩を書くときには重要ではないでしょうか。絵画や音楽の世界と同じように、そういう創作のプロセスが必要だと意識するだけで、詩の「はじまり」を客観視でき、それらをより生かす言葉にも近づけるはずです。
 詩を書くとき、書きながら内容と形を発見してゆく人は多いのではないでしょうか。逆に言えば、最初から最後まで見えているものを写しただけでは、日記や事実の報告書で終わってしまいます。詩は書き手がコントロールしようとしてもできないものです。詩の「はじまり」を全方向から眺めるうちに、さまざまな想像や感覚や記憶が呼び覚まされ、それらとともに言葉が自由に動き出す。そして今度はある一語が意外な一語を呼び、書く人を思いがけない行へと導くという流れが生まれます。ですから詩を書くときには、一時的な感情や常識や思い込みに囚われずに、言葉自体の動きや連鎖を信頼し、広大な言葉の海に身を任せることが大切なのではないでしょうか。書く人が言葉の海で自由に遊ぶ。そしてその自由な旅の痕跡を読む人もまた、ふだん使わない五感を動かす。そのことが現実世界を新鮮な感覚で生き直すきっかけになるかもしれません。そう想像することも詩作の面白さだと思います。

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