研究活動・親睦

詩祭

日本の詩祭2017開催―はばたけ、見えないものを見るために

日本の詩祭2017開催 はばたけ、見えないものを見るために H氏賞・現代詩人賞贈呈、先達詩人顕彰 6月18日、ホテルメトロポリタンエドモント 左から以倉会長からH氏賞を受ける北原千代氏、現代詩人賞の中村稔氏の代理・中村朝子氏  日本現代詩人会主催「日本の詩祭2017―はばたけ、見えないものを見るために」が、6月18日(日)、東京・飯田橋のホテルメトロポリタンエドモントで開催された。 ◇第1部(司会・塚本敏雄、草野理恵子)  始めに田村雅之実行委員長から挨拶と司会者の紹介がある。司会は塚本敏雄氏と草野理恵子氏。  開会の辞で新延拳理事長は「本年のスローガンに「はばたけ、見えないものを見るために」とあります。〈詩〉というマジックをもって今日一日の様々なイベントで「見えないものを見る」ことを行いたいです」と述べた。  第67回H氏賞の贈呈式が行われた。受賞は北原千代氏の『真珠川Barroco』に決定した。八木忠栄選考委員長から選考について報告が行われた。 八木選考委員長  「第1回選考は2月4日に、第2回は3月4日に行われました。数冊の推薦詩集を選んでもらい、意見を述べてもらいました。検討を重ねて、北原千代詩集、坂多瑩子詩集の2冊に絞って議論を進めました。最終的には北原5票、坂多2票となり、書き始めて十年ということもあり『真珠川 Barroco』に受賞が決まりました」と述べた。  以倉紘平会長から賞状と賞金が北原千代氏に渡された。 「真珠川」について語る瀬崎氏  受賞詩集について瀬崎祐氏は、「今回の受賞詩集ですが、4冊目の詩集となります。作品の底には、どの作品にも〈水〉があり〈音楽〉があります。その二つが重なりあうところに年老いた先生が現れてきます。この詩集にはタイトルとなった「真珠川」という作品はありません。ただ、いたるところで小さな川が出てきます。冒頭から2作の「ソナチネの川」では話者は「わたしは小川をもっている」と言っています。小川は作者の奥深いところを濡らしていきます。「櫻池」という作品には老いた先生が出てきます。先生はお腹に横皺が入る病にかかります。この作品は湿った肉感がまとわりついて桜の花はどこか淫靡です。熱にうかされて、現実も非現実も混沌とし、そんな幻覚のなかで、ただ見ているしかなく、身をまかせてしまうような危険な快感があります。また、「卵の耳」という作品があります。女性は自分の体の中に卵をつけている。そこにゆるされた精子のみが入ってきて、自らの分身を作ります。女性には特有の卵生への回帰願望があるのではないでしょうか。秘密を共有しているようなエロティックさがあります」と静かにその魅力について述べた。  北原千代氏から受賞の言葉があった。「この詩集は原稿に何度も手を入れ内容がなかなか定まらず、ようやく誕生した一冊です。はじめて本を手にした時、暑い夏の盛りでしたけれど、しみじみとうれしかったです。「新しい詩集はまだですか」と自分のことのように待っていてくれた友人は、発行の3週間前に亡くなりました。届けることはできませんでしたが、「全ての営みには、時がある」という言葉の通りになりました。詩の言葉もイメージも天からの賜りものでした。預かった言葉を、いま生かされている身体を、誰かに伝え残したいと切に願ったのが、この詩集だったように思えます。これから言葉と自分の関係について表現方法について真摯に学んでいきます」と感謝の言葉と共に述べた。  日本現代詩人会と思潮社と所属詩誌から花束贈呈が行われ、祝電が述べられた。 倉橋選考委員長  続いて第35回現代詩人賞の贈呈式が行われた。受賞は中村稔氏の『言葉について』に決定した。選考経過報告が、倉橋健一選考委員長から行われ、「3月4日に選考委員会が開かれました。受賞に値する条件があるとすれば、一昨年、昨年でしたら戦後70周年というものがあり、戦後詩からずっと携わってきた詩人たちが最後の時を迎えています。その折々の年の特徴として、戦後の流れの中で、詩の言葉を追求してきています。そのことが中村さんの受賞につながったのではないかと考えています。現代詩の中ではソネット形式を使っているものは少ないが、一貫性もあり、集大成という意味もあります」と述べた。  以倉会長から、体調不良の中村稔氏の代理として、ご令嬢の中村朝子氏に表彰状と賞金が授与された。  詩集について高橋順子氏は、「中村さんの詩に信頼を寄せているのは、そこにひとりの人間がいて誠実に悩み苦しみ、そこに希望を見出そうとしていているからだと思います。『言葉について』には20のソネットで、タイトル通り「言葉について」書かれてあり、「1」の「私たちは言葉に躓く。」で始まります。躓いたところから詩が始まります。この詩の最後は「言葉の恐ろしさを知っているから、いつも謙虚に、つつましく/いとおしさをもって、言葉に接するのだ。」とあります。どこか中原中也を思わせます。「12」の作品では「言葉はじつは私自身である」と述べてあります。言葉というものに定義を与えていくと、次から次へと逃げていくもので、定まった形は見いだせないと思ったほうがいいのかもしれません。詩の形で書いたほうが伝えられると直感的に判断したのだと思います」と述べた。  またこのソネットの形式は抒情詩だけでなく、思索するのにも適した形式ではないかと語り、「ソネットの新たな可能性を思いついたのは日本の詩にとって行幸であったのではないか」と指摘して「古典的な詩形にも新しい世界が開けると思います。端正な言葉を盛りながら、新しい試みの重みを示されたことに敬意を表したいです」と結ぶ。  中村氏に日本現代詩人会と思潮社と大宮詩人会から花束の贈呈が行われ、祝電が読まれた。 代読する中村朝子氏  ご令嬢の中村朝子氏は父・稔氏の言葉を代読した。  「私は詩の同人誌に参加したこともなく、好きなように詩らしいものを書いてきました。わたしが書いた詩が現代詩と呼ばれるものかまったく自信がありません。言葉について考えるきっかけを提供した詩であって、現代詩という範疇に属するものではないと判断していました。この『言葉について』が現代詩と認めてくださったことを非常に意外に思い、うれしく感じました」。  先達詩人の顕彰が行われた。以倉会長から財部鳥子、木村迪夫、菊田守各氏へ顕彰状と記念品の贈呈があった。  以倉会長は「若い頃は自分一人で詩を書いていると思っていました。会にも入っていませんでした。私どもは先輩詩人の背中を見て詩を書いてきました。それが目に見えない現代詩の伝統でありました。前衛詩ばかりだと前衛とは言わない。伝統的な詩の魂の在り方があって、前衛詩というのではないでしょうか」と詩祭のテーマにも絡め、感極まりながら静かにそして熱く語った。  財部氏は「栄誉ある賞を受けて、皆様に申し訳なく思います。名詩を書いたわけでもなく、自分は何をしたのかなと自責の念を覚えます。このことを名誉に光栄に思います」と述べた。  木村氏は「東北の山形の雪深い村から参りました。詩を書かせていただいたのは、明治生まれの文盲の祖母でした。その祖母が戦争で2人の子どもを失いました。「自分で文字が書けたならば、戦争の悲惨さを書き残して死にたいものだ」と遺言を残しました。私はこの文字でもって書き残さないといけないと思いました。郷土の詩人の真壁仁先生の門を叩きました。先生からは、「文学的にも優れた言葉を創造していくことが詩人の役目なんだ」と教えていただきました。黒田喜夫さんと出会いました。「君は村から出てこないことを不幸と思うか。幸福と思うか。そこでどう生きるか地場を見出すか、そのことが問題ではないか。そのことを肝に銘じて頑張れよ」と手紙を頂きました。今日あるのは黒田さんのお陰だと思いました。また松永伍一さんの「日本農民詩史」という本に自分を紹介していただきました。「黒田喜夫から抜け切れないと独立した木村迪夫にならないぞ」と言われましたが、わたしは幸せでした。鈴木志郎康さんには「木村君には存在があるのではないか。状況の詩ではなく、農村、農民という地場を持っているのではないか。そのことを忘れないで詩を書いてほしい」と言われました。自分は優れた先輩詩人を多くもっている。そのことを幸せと思います」と涙ながらに語った。  菊田氏は「私は東京に生まれました。私に詩を書かせてくれたのは病気です。両親、兄弟に助けられて詩を書いています。糖尿病になったり、数年前は2階の階段から落ちてろっ骨を骨折したりして自宅で治しました。また伊藤桂一さんに45年間いろいろなことを教えて頂きました。詩を書いているということが励みになっています。先達詩人というのは80歳過ぎないともらえないのかな。先立つ詩人にならないと頂けない。85歳になるまで書き続けます」と気さくにユーモアを交えて笑いを誘った。 挨拶をする財部氏(左上)、木村氏(右上)、菊田氏(左下)  その後、財部氏と木村氏と菊田氏に、日本現代詩人会、思潮社、所属詩誌などからそれぞれ花束贈呈が行われた。  終わりにそれぞれの受賞詩集から、北原氏と中村朝子氏の朗読が行われた。選ばれた言葉と豊かな詩情と人の関わりに触れることができた。(記録・光冨郁埜)  第2部 琉球歌謡のことばと表現 波照間永吉  第2部は波照間永吉氏による講演で幕を開けた。波照間永吉氏は1950年沖縄県石垣市生まれ。現在、沖縄県立芸術大学名誉教授、沖縄県立芸術大学付属研究所客員教授。『南島祭祀歌謡の研究』、『新編 沖縄の文学』、『定本 おもろさうし』、『沖縄古語大辞典』など沢山の編著書がある。冒頭に首里語と石垣島の言葉で挨拶をし、いかに両者の言葉が違っているかに驚きを与えられて講演が始まった。 1、はじめに――琉球語と琉球文化圏  琉球歌謡は琉球語で作られた歌謡である。その琉球語(琉球諸語)は、北から奄美語、国頭語、沖縄語、宮古語、八重山語、与那国語の六つに分けられる。それぞれ、特徴的な音韻と、アクセントを有して、独特な言語状況を作り出している。これら六言語の隔たりは大きく、特に、沖縄語以北の言語と宮古語以南の言語とは相当に異なり、しかも宮古語と八重山語、与那国語との間では理解することさえとても難しいものである。これらの言語はユネスコによって「絶滅の危機に瀕した言語」とされている。つまりは琉球文学もまた、絶滅の危機に瀕している、ということになるわけである。  さて、琉球文学は、その大部分が口承で伝えられてきたものである。紙と筆によって記され、作り上げられてきた、我々が普通に文学という言葉で呼んでいるもの、例えば、小説や随筆などはほとんど例がない。まず、琉球文学の全体についてその概容を紹介しよう。 2、琉球文学の概観  私は琉球文学を、原則として琉球語によって形象された文学と規定している。時代は古琉球期から現代にいたるまで、地域的には上に述べた北は奄美から南は八重山に至る琉球文化圏の地域で作り出され、享受された文学、と考えている。しかし、広い意味では、近世期に作られた大和語・漢語による作品群も含めて、琉球文学といってよいだろう。  琉球語による文学の大きな特徴は、その大部分が口承の文芸として生まれ、享受されてきたということである。そのジャンルには歌謡があり、説話があり、演劇がある。それこそ、島々・村々の名も無き人々が作り、楽しんできた作品である。そして、これらの作品の内の多数のものが今も尚、村の生活の中、祭祀の中、さらには都市生活を送る人々の中でも生きているのである。 3、琉球歌謡について     ――事例に触れながら  琉球歌謡の全体を分類する視点には幾つかあるが、ここでは外間守善氏の分類にしたがって紹介しよう。まず、呪祷歌謡がある。これは、祭祀における神と人とを結びつけるための呪詞・呪文・呪謡そして神歌である。これは、簡単に言うと「神事の中の文芸」と言っても良いだろう。そのほとんどは人から神への祈願のことばであり、呪いの言葉であり、また、歌謡であるが、中には、神が自ら語る、あるいは謡う神歌もある。「ハブグチ」や「ニギグチ」などの呪いの詞章にみたように、そこには言霊信仰を背景に、忌み言葉や美称表現、そして対句表現による繰り返しなど、言語表現としての特徴的なことがある。  オモロは祭式歌謡であり、呪祷的性格が強い。オモロは形式的には「対句法」による叙述とハヤシ句によるテーマの各節での反復という構造を持つ。ここでも言語を飾るものとしての「反復」という方法の存在がある。オモロの内容をみるために、日の出の情景を謡った巻13-851、夜の天体を謡った巻10-534の二つのオモロを挙げたが、共に現代のわれわれれとは別の眼をもった者たちの見た情景を表現しており、オモロを読み解くためには、そのような、宗教的な想念に思いを致すことが必要だろうと思う。 次に「叙事的歌謡」であるが、叙事的歌謡は二つに分けられる。まず第一は、神の事績を物語のように謡うもの、英雄・豪族の戦闘や交易・航海、村の創立を謡うものなど、神と人と社会の文学と言える歌謡群がある。神話的事柄や歴史的事件に題材を求め、その展開や事績を物語性をもって長々と歌い継ぐ韻文詞章である。形式的には5・4音を基本的な音数として、これに対句表現を幾十節も重ねて、事件を叙事的に謡っていく。こうして謡われたのは、村落の創成神話であり、英雄の活躍する歴史であり、土地の豪族の築城・交易・航海などであった。もう一つは純粋に、人と社会との関わり、社会の中でおこる様々な人間的な事柄を叙事的に展開する歌である。「安里屋ユンタ」などのような歌である。このような普通の人が社会で織りなすさまざまな事件を口にのぼらせて謡ったのである。許嫁であった男女の別れ、嫁と姑の物語、孤児の悲話、村の労働、役人達の専横など、実に様々な内容の歌が、物語として謡われている。  最後のジャンルが抒情歌謡である。個人の喜怒哀楽をうたうことがモチーフになっている短詞形の歌謡である。これについては、北琉球と南琉球では様相が異なる。北琉球では8・8・8・6音4句の琉歌という形式の歌が成立している。十四世紀前後のことかと思われる。オモロなどにその萌芽的事例が確認される。南琉球では、宮古にトーガニー、八重山ではトゥバラーマという歌謡が誕生した。トーガニーは音数律は確定していないが、5・4音句、5・5・4音句を基調にして、例えば5・4/5・4/5・5・4のような形で一首を構成する。旋律は同じもので、これに即興的に歌詞を載せて謡う。八重山のトゥバラーマも音数律は成立していない。ここの方は10音前後の4句で一首を構成する方向のあることが指摘できる。これらは現在も次々と新歌詞が生まれ、郷土の歌謡・民謡として多くの人々に親しまれ、コンクールも行われるほどである。 4、琉球歌謡の比喩表現      ――宮古・八重山歌謡から  先ず宮古の例からみよう。「まむやのアヤグ」という歌がある。美しい娘マムヤの悲劇を謡った歌であるが、その中に注目すべき表現がある。「マモヤが肝や いるみ変り 生蛸どやれば 北の海の ぱなたから 下がり落て無ん」(マムヤの心は、ぬらぬらと色が変わる生蛸のようなものであるから、北の海の崖から飛び降りてしまった)。これは、失意の中のマムヤの心が千々に乱れていく様を蛸の生態を借りて表現しているものである。蛸は陸上に引き揚げられても次から次に色が変わる。それも直線的に変わるのではなく、ぬめぬめというか、斑模様にぬらぬらと変わる。男に捨てられ失意の底で苦しむマムヤの、生きるべきか死ぬべきかという、人生最後の葛藤・煩悶をそう表現したのである。「千々に乱れる」などという手垢の付いた比喩ではなく、まさに、沖縄の海の生活の中からしか生まれない、新鮮な比喩である。  八重山歌謡の比喩表現としては、島々の女性をとりあげて、それぞれを月旦・批評した珍しい歌「竹富ぬぎらいちぇーまユンタ」が出色である。島々の娘を批評するその表現は、まったく意表をついている。例えば第5節は西表島古見の娘を取り上げるのであるが、「まかなしぬ 生りやよう/女童ぬ うしでぃやよう/割り薪 生りばし/まらがるん 産でぃばし」(マカナシという娘はなんと、斧で割った薪のようにごつごつしてまったく縛り纏めることも出来ないものだ)。これは、この娘の性格が、まったく一筋縄ではいかないはねっかえりの、ささくれ立った性格だということの表現であるが、その先にはこの娘の肌触りさえも想像させる。  これらの宮古・八重山歌謡の比喩表現をみると、日常生活の周辺にありふれた事物が材料となっていることがすぐに分かる。このような日常の事物を用いながらも、こんなに新鮮な比喩を達成したことに驚くのであるが、それは、物・事柄と言葉の関係が親密であった、あるいは距離が近かった、ということがあるのではなかろうか。あるいは、比喩表現に対する、人々の持つ内的必然性がこのような比喩を生んだのだろうか。これについては、表現の専門家である皆さんも一緒に考えていただければと思っている。(講演要旨)  ベービー・ブー   歌謡アルバム「故郷の歌」  講演の後は、ベイビー・ブーによる歌謡アルバムを楽しんだ。ベイビー・ブーは2002年にメジャーデビューし、新宿の「歌声喫茶ともしび」やテレビ、ラジオなどでも活躍している若手五人によるアカペラの歌謡コーラスグループ。インスタントコーヒーのCMの歌声は広く知られている。「高校三年生」「銀色の道」「明日があるさ」「どんぐりころころ」「からたちの花」「じいじのシンデレラ」「365歩のマーチ」「乾杯」など、懐かしい歌や美しい歌を厚みのあるコーラスで聴かせ、聴衆を魅了した。心弾むひとときであった。  田村雅之実行委員長が閉会の言葉を述べて、「日本の詩祭2017」は幕を閉じた。 (記録 中本道代)  ◇懇親会  午後6時から会場を移動して懇親会が開催された。田村副理事長によって司会の曽我貢誠氏、長田典子氏が紹介され、新延理事長の挨拶、以倉会長の挨拶があった。  続いて、ホームページでの第一回現代詩投稿欄の表彰式に移った。杉本真維子理事、新延理事長の挨拶の後、野村喜和夫選考委員長より選考経過が報告された。第一回現代詩投稿欄新人賞は櫻井周太氏、投稿欄新人は横山黒鍵氏、上原梨花氏、樽井将太氏の3名。新人賞の櫻井氏に賞状と副賞の図書カード、新人の上原梨花氏と樽井将太氏に賞状が贈呈された(横山黒鍵氏は欠席)。他の選考委員は高貝弘也氏と峯澤典子氏。  表彰式の後は新川和江氏の音頭による乾杯、歓談の時となった。その間、日本詩人クラブ会長、川中子義勝氏のスピーチ、新人賞の櫻井氏、新人の上原氏、樽井氏によるスピーチと詩朗読が続いた。盛岡から出席の森三紗氏、青森から出席の小笠原茂介氏、富山から出席の池田瑛子氏の挨拶、新入会員の大木潤子氏、坂本直充氏、原詩夏至氏、小野進一氏の挨拶も続いた。午後八時、黒岩隆担当理事の閉会の言葉によって、名残りは尽きないながらも閉会の時になった。(記録 中本道代) ◇「詩祭2017」会員出席者 秋亜綺羅、秋本カズ子、秋元炯、秋山公哉、朝倉宏哉、麻生直子、天野英、新井啓子、安楽正子、以倉紘平、池上耶素子、池田瑛子、石下典子、石川厚志、一瀉千里、井田三夫、一色真理、井上敬二、井上尚美、井上英明、植木信子、植村秋江、海埜今日子、江島そのみ、小笠原茂介、岡島弘子、岡本勝人、長田典子、尾世川正明、小野進一、小野ちとせ、柏木勇一、金井雄二、金指安行、川中子義勝、菊田守、北川朱実、北畑光男、北原千代、橘田活子、木村迪夫、草野理恵子、熊沢加代子、倉橋健一、黒岩隆、黒羽英二、河野明子、小島きみ子、こたきこなみ、後藤大祐、木場とし子、小林登茂子、斎藤恵子、斎藤正敏、坂本直充、佐川亜紀、左子真由美、ささきひろし、颯木あやこ、佐藤洋子、沢聖子、沢村俊輔、塩野とみ子、重永雅子、志田道子、清水茂、下川明、新川和江、新藤凉子、菅沼美代子、杉本真維子、鈴木茂夫、鈴木東海子、鈴木豊志夫、鈴木比佐雄、鈴木文子、鈴切幸子、瀬崎祐、曽我貢誠、高島清子、鷹取美保子、高田太郎、高橋次夫、田上悦子、財部鳥子、竹内正企、竹内美智代、田中眞由美、田中美千代、田中裕子、田村雅之、鎮西貴信、塚本敏雄、対馬正子、甘楽順治、戸台耕二、富永たか子、中井ひさ子、中島登、中田紀子、中本道代、長津功三良、なべくらますみ、新延拳、布川鴇、根本明、野木京子、長谷川忍、服部剛、浜江順子、原詩夏至、原島里枝、原田道子、春木節子、林田悠来、葉山美玖、はんな、樋口忠夫、日原正彦、平林敏彦、昼間初美、広瀬弓、福島純子、房内はるみ、藤井優子、藤本敦子、堀内みちこ、堀江泰壽、松沢桃、三ヶ島千枝、水崎野里子、水嶋きょうこ、水谷有美、水野榮子、峯尾博子、峯澤典子、光冨郁埜、宮尾壽里子、宮崎亨、宮地智子、村尾イミ子、望月苑巳、森三紗、森水陽一郎、八木忠栄、八木幹夫、山田隆昭、山中真知子、山本聖子、結城文、若山紀子、渡辺みえこ、渡辺めぐみ ――――――――――――――  ・会員出席者 170名  ・一般参加者  60名  ・来賓・報道  20名  ・懇親会出席 120名

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