研究活動・親睦

講演

2025年詩祭 工藤正廣氏講演記録 詩人がロマンを書くとき

2025年詩祭 工藤正廣氏講演記録 詩人がロマンを書くとき
 ―『ドクトル・ジヴァゴ』を巡って

講演する 工藤正廣氏


 本講演は、詩人パステルナークと長編『ドクトル・ジヴァゴ』をめぐって進めたい。彼の死去は1960年5月30日深夜。イエス・キリストの昇天日と同じですね。
 今日、この「日本の詩祭」の6月1日という日は、65年前の弔問の日にあたっていて、なんという符合。6月2日は野辺送り。この野辺送りの情景は、あとでロシア語で声読しますが、『ドクトル・ジヴァゴ』の冒頭の一章に先取りされているのですね。
 パステルナークはロシアのユダヤ人ですが、ロシアの大地育ちと生粋のモスクワ人。乳母から幼児洗礼を受けていた。
 最期の年は、復活祭後に進行性肺癌が急速に悪化、ひと月半ほどで死去。こんなに進行が急速だったのは、前年までの凄まじいまでの『ドクトル・ジヴァゴ』ノーベル賞事件が吹き荒れたから。1837年の詩人プーシキンの死以来ロシアは詩人を殺す。100年後の1937年の知識人大粛清の嵐まで止むことがない。しかしパステルナークは神の御加護あってか、ここまで生き延びたが、ついに殺された。その死の前の言葉がある。わたしはこの世の俗悪との一騎打ちの一生だったと。
『ドクトル・ジヴァゴ』とは、神への告解の書といっていい。歴史を生き切ったロシア最後の詩人。亡くなって二日間、ユディナがチャイコフスキーのピアノ三重奏を、リヒテルがべートーヴェンを、義理の息子のスタニス・ネイガウスがショパンを弾き続けた。パステルナークはチャイコフスキ―のピアノ・トリオが好きだった。
 この曲を聴けばすぐに『ドクトル・ジヴァゴ』に第二楽章の多くのヴァリエーションを思い出すだろう。
 彼はモスクワのロシア語を誰よりも美しく、歌うように話した詩人だ。
 死の前に、銃殺された親友の詩人、タビゼの妻ニーナがグルジャから訪ねてくる。ダーチャの庭から摘んできた空色のわすれな草を見てパステルナークは、草地から摘んできたんだね、と言った。彼は空の青い色が好きだった。恐らく、雪解け水の引いた広大な牧草地が空色に染まるのを思ったのだろう。またある日、ニーナが黄色い花(彼は野の花だけを好んだ)を摘んでくると、青い花瓶に活け母の形見のピアノの上に置かせた。パステルナークは狭いピアノ室で死期を待つ。そしてその花の名を、なぜか(実際はタンポポではなかったのに)、ニーナに、その花の名はタンポポだよと教えた。ロシア語でタンポポは「マーチ・マチェハ」、なぜか「母と継母」という意味だ。
 6月2日は野辺送り。教会葬をと遺言するが、妻はそれを退けた。しかし自宅で死後の秘蹟を受けキリスト教徒として死ぬ。
 ぼくが初めてペレデルキノの共同墓
地にパステルナークの墓碑にお参りし
たのは1976年の夏だった。昨日の
ように思い出す。それからモスクワ入
りするたびに、訪れた。落雷で折れた
三本の赤松が目印。

 ところで、詩人が最後の仕事として、散文で長編を書くというのはどういうことか。パステルナークは自分の生きた歴史と自伝を年代記として書き、それを神に捧げることだった。そして、再び根源の宇宙なる神へと帰還する。神の信仰なしには不可能だ。パステルナークは『ドクトル・ジヴァゴ』の肋骨をイエスの福音書の思想でこしらえた。巻末の25篇のジヴァゴ詩篇がそれだ。日本の詩人にはこれはなかなかできない。もしかしたら大乗仏教から可能か。同時にまた、パステルナークのジヴァゴは、彼の始祖を想起する一族史の意味合いもある。やがて流浪と離散流離のダビデ王の末裔という家族の神話によってだ。

 ぼくはパステルナークの二十歳年下
の愛の片腕であるオリガ・イビンスカヤさんをかれこれ三度はお訪ねした。ここで詳しく語らないが、一つだけ。1991年、ソ連崩壊後、ある日突然モスクワの彼女から電話があった。「いよいよパステルナークの思想を世界にひろめる講演旅行にでる。マサヒロ、長男のミーチャと姪のエレーナと三人だ。よろしく準備しなさい」と。高揚していた。ぼくは大慌てに慌てた。天真爛漫な方だった。ウオッカをひっかけてかけてきたのだ。……
 これからジヴァゴ詩篇をロシア語で〈声読〉します。パステルナーク自身の自作の声読は、書いた時と同じようにその言葉に詩を発見するように読む。探し求めて声にする。

 担当付記
 工藤先生のお話は独特のユーモアセンスの魅力的な語り口で、本当に楽しいものだったので、それがお伝えできないのが残念です。
         (担当)藤井優子

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