子どもたちの支援紹介

アウトリーチ活動としての詩のワークショップ、その光輝
田中庸介


0.はじめに
 


 子どもさんへの詩のワークショップのやり方について、とのお題です。こういうのを一般的には「アウトリーチ活動」と言っていて、専門家が、専門家予備軍というか、非専門家に対して、どのようにして自分らの仕事のやり方の入り口を明かすか、というのがその本質にあります。今は非専門家だけれども、五年十年するとどこかで専門家になって、こちらと競い合うような仕事をなさる方々かもしれない。ということで、アウトリーチ活動においては、クライアントをきちんとリスペクトして、相手の立場に対してできるだけ想像力をもって、➊このジャンルに興味をもってもらう ➋このジャンルの基本的な骨組みを正確に伝える ➌最初からいきなり高度なことを要求しない ということが重要となります。ことに ➌ が大事。詩のワークショップでは、まず有名詩人の詩を読ませて、次に生徒に詩を書かせて、最後にそれをコメントする、というような方法がまずは思いつくかと思いますが、わたしはそういうことはあまりやっていません。ほんまものの現代アートは、他ジャンルのことを引き合いに出せばわかるとおり、ちょっと仮に書きはじめるというには難しすぎるものだからです。そして難しいからこそ、やりがいがあり、面白いものだからです。
 私見では、わが国の詩は、言語の「音楽性」と「意味性」をあえてスプリットして、その間隙を作品創作の原動力の一つとしています。また、そのことによって「現代性」を担保してきたという歴史的な経緯が大きいと思っています。「音楽性」と「意味性」どっちがエライ、と言われても、それは冷蔵庫と洗濯機どっちがエライ、というような疑問と同じくらいの価値しかないのですが、詩人は好んでそれを議論したがる傾向がありました。現代詩という遊びの大きなポイントとして、そのような観点があったということを、どこかで気づいてもらう必要があると思います。
 わたしが最初に現代詩の話をきいたのは八十年代の高校時代のことで、北川透さんの講演会を聞きにいったのでした。そうしたら北川さんはズバリと、「ことばは物になった」と言われた。さすがだと思いましたが、わたしのワークショップはほんとうに素人相手なので、それをいくつかの段階に分けて伝える、感じてもらう、身をもって体得してもらう、そういうことに主眼があります。
 どんな人の身体も「細胞」でできているように、どんな人の心にも「アート」はあるはずです。アートは、文壇とか、美術館とか、コンサートホールだけにだけあるのではなく、だれもが自分自身の中に内在しています。そのことへの気づきは、未知のものへの想像力を鍛え、ひいては多様な他者への理解と寛容の心を養うことにもなります。
 そこで今回は、わたしがこのごろ力を入れている (1) 数字短歌 (2)穴埋め詩 (3) 共同詩 の3つについて解説させてもらいます。


1.数字短歌


 数字短歌は、松井茂さんらの「純粋詩」から想を得たものです。松井さんらは、芸術というもののありかたを問うため、意味が「ない」詩を書き続けるということを発想され、毎日、算用数字だけで構成された詩を発表する、というパフォーマンスを数年にわたり続けられました。つまりそこでは、意味が「ない」ということが、その詩の「意味」だったのですが、果たしてほんとうにそうだろうか。そう思い、2004年に歌人の飯田有子さんの「別腹」という同人誌に参加した折、自分でも1、2、3の3つの数字だけを使い、短歌形式で書いてみることにしました。

  左 11111 1113123 13331 3323113 1331222
  右 11211 1331333 33323 3331333 3331333
  判 ほっそりと柳のような左歌の調べに対して、右歌の「3331333」の繰り返しには万葉の素朴がある。左歌「3323133 1331222」など言う緩急の艶をとり、左勝。

(「数字短歌自歌合七番」より「第四番」。拙著『スウィートな群青の夢』未知谷、2008)

 いくつも書いていくとこのように、「いい歌」と「よくない歌」というのが歴然と見えてきて批評できるようになりました。そこで、自分の数字短歌同士を戦わせてそれに自分でコメントをするという、王朝の歌詠みのような「自歌合」(じかあわせ)の形式でこれをまとめてみました。声に出して読んでいただくとわかると思いますが、「3」が何となく強い声調、「1」が弱い声調、「2」にはその中間、という感じがあり、日本語の等時拍は基本的にこの3つの声調の組み合わせによって構成されています。ですから、その3つが五七五七七のリズムにのっていれば、なんとなく日本語の短歌の調べを聞いている感じになる。言葉の「意味」が全くなくても、言葉の「調べ」というものがこのような方法で生き生きと聞こえてくる。すなわちこれは、音楽性のコンポーネントだけを詩から抽出して味わうことのできる、かけがえのない実験であるということがわかりました。
 そこで、このような数字短歌の味わいが、ほかの方々にもどのくらい通用するのかを知りたく思い、古典的な匿名互選歌会のワークショップをすることとしました。これは西荻窪のギャラリー「すゞ途」の「ハーレム、東京、詩の土をこねる」展 (2016)、古書店「忘日舎」での詩のワークショップ (2016)、川崎市岡本太郎美術館の「岡本太郎と遊ぶ」展 (2017)、アーツ前橋の「ヒックリコガックリコ」展 (2017)、インド・コルカタ市のナショナル・ポエトリフェスティバル (2018) 等でも展開しました。
 やり方としては、まず参加者全員に、短冊に書いて数字短歌を提出してもらいます。次に、係がランダムな順番で匿名のもとに清記し、そのコピーを全員に配布し、選歌してもらいます。それを集計し、高点歌から全員で感想を言い合い、その上で作者を明かします。
 このような数字短歌の歌会を行ってみると、実際、それぞれの歌の点数の間にかなりの差がつくことがわかりました。このことは、数字短歌の「調べ」の良しあしが出席者にも共有されており、ある一定の共通な審級によって評価されている、ということの証拠となり、非常に興味深かったです。
 この数字短歌ワークショップを結ぶにあたって、ひとつ重要なことがあります。わたしは、この方法で今回純粋化された歌の「調べ」は、実はわれわれが日々読んだり書いたりしているすべての詩にも内在しているものであり、詩人はことばの「意味」とともに、一音一音の声調をも感じながら、言葉を選んでいるのですよ、と強調しています。これを言うことで、ことばの「意味性」と「音楽性」の二つの側面に気づいてもらい、詩へのひとつの入り口となるのです。


2.穴埋め詩

 
 いきなり一つの詩を書いてもらうのはハードルが高くても、すでにあるフォーマットにことばを入れて詩行の原型をつくるのは、比較的たやすいことです。そしてそれを織り合わせることによってひとつの作品を完成させ、朗読して発表する、ということを一度体験するだけで、「詩」というものは大分身近に感じられるようになるでしょう。

 前述の「岡本太郎と遊ぶ」展のワークショップでは、次のようなふたつのカードをたくさん印刷して、入館者に記入してもらい、それをもとにして詩の連作をみんなで構成した後、現代美術家の横山裕一さんを講師に、詩を漫画化してもらう、ということを試みました (1)。ワークショップのタイトルは「爆発的な詩と漫画に挑戦!」でした。
さらに滋賀大学の菊地利奈さんが主催された《詩ってむずい? 滋賀大学詩作ワークショップ☆詩人と一緒に詩を書こう》(2022)でも、この穴埋め詩を中学生の参加者相手に展開しました。
 上の句のカードには「私は(       )だ。/私は(       )した。」と書いてあり、下の句のカードには「(       )する午後。/(       )はまだこない。」と印刷してあります。一枚目は、一人称文学の基本としての「私」性の提示です。二枚目はもちろんベケットの演劇《ゴドーを待ちながら》を下敷きに、情景と予感を想像させ、時空を演劇的空間に延長していく飛躍です。もちろんこの「私」という作中主体は現実の作者である必要はなく、「私は鳥だ。」あるいは「私は島だ。」など、バラエティに富んだ発想が出てきます。
 これが書けたら、ホワイトボードに上の句と下の句を全部はりつけ、参加者とディスカッションしながら、それぞれの取り合わせのペアを作っていきます。この段階で、あまりにもどうしようもないと思われるものは、うまくはじくこともできます。
 そこで、それぞれのペアの意味の続き方あるいは飛躍をよく考えてもらい、順番を入れ替え、連作として完成します。このあたりは、現代短歌の連作性にもアイディアを得たものです。
 最後に重要なのがタイトルです。これも、参加者のアイディアをもとに、もっともよいものを考えていきます。そして、これを順番に貼り合わせて人数分コピーすると――、なんと、非常にすばらしい一篇の詩が完成しているではありませんか! そこでホールに移動して、みんなの前で、それぞれの行を書いた人が次々に前に出て、これを朗読してもらうと、詩が身体化され、群像劇のようなパフォーマンスが完成します。
 このワークショップをやりますと、詩人が詩を書く現場の激しい悩みのようなものまでも、みんなで一緒に体験することができます。また、俳句でいうところの「つきすぎ」をうまく回避した詩的世界に飛躍することすら期待できます。このあたりは、ひとえに指導者の力量にもかかっていますが、いままでのところ、みなに満足感をもって帰ってもらっています。


3.連詩、共同詩

 連詩は複数人の人が順番に詩をつなげて書いていくものです。この発端は、大岡信さんの「うたげと孤心」(1978)の考えによるところが大きく、その根底には、座の文芸であったはずの詩歌が現代では密室のものになってしまっているということへの批判があります。わたしは2022年に野村喜和夫さんのお招きで「しずおか連詩」に参加し、作家の堀江敏幸さん、歌人の木下龍也さん、詩人の暁方ミセイさんとともに、濃密な時間を過ごすことができました。
 これに先立って、前述の「岡本太郎と遊ぶ」展では、すでにその場所の偉大なるトポスと化している岡本太郎氏とともに、詩で「遊ぶ」ということを試みました。他には「おと・リズムで遊ぶ」「さわって遊ぶ」「においで遊ぶ」「仮面で遊ぶ」などのパートがありました。
 わたしは、詩の展示室の壁面を使い、色とりどりの短冊にひとり一行ずつ詩の行を書いてもらい、前のひとの行に続くようにしてほしいと来場者の方々に呼びかけました。特に、詩が「自己実現」とか「国語の学習教材」を意図したものではなく、純粋な知的な遊びである、知的なアートである、ということを強調することは、格式ある詩というジャンルの存続のためにも非常に重要なことと感じました。
 一行目はわたしの行でありましたが、そこから会期中に数百名の方々が続きました。そして結局、650行の詩「私たちは、夢を叶える人」を完成し、これをわたしが30分かけて朗読しました。これを映像におさめ、 YouTube にアップロードしました。ここまでこの企画が人気を博すことになるとは想像もしていませんでした。以下にリンクを貼っておきます。

650名の連詩「私たちは、夢を叶える人」 A long poem by 650 people – YouTube

 これをごらん頂ければわかるように、現代人の「夢」というのが「食」と「旅」に集中し、東海林さだおの随筆のような「あれも食べたいこれも食べたい」あるいは「どこか遠くに行きたい」という欲望に終始していることがよくわかります。「食べたい」、けれども「太る」から「食べられない」。ほんとうに650人の作者が書いたとは思えないほど、その欲望の卑近さならびに切実さの質は一貫しています。このようにして詩というものが、時代の奥深くを流れる集合的無意識を掬いあげ、なおかつ可視化するものだということを、図らずも教えてもらったような気がしました。


4.まとめ

 詩や詩人をめぐる環境も、時代の変化とともに様相を異にしてきました。震災やコロナを通して感じたことは、わが国の詩には、文化の最終兵器とでも言うべき深淵の存在が、いまなお期待され続けているということです。したがって、未来の清新な創造力を切り拓く新人予備軍に対して、このように詩人団体がアウトリーチ活動に励まれるのは非常に尊いことと感じます。わたしの乏しい経験がそのためのヒントとなれば、これ以上の喜びはありません。 

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