子どもたちの支援紹介

 詩を広く読んでもらう一環として、子どもたちが詩に親しむ活動をしている個人や団体を紹介します。今回は、小学校の国語教師として、授業にどのようにして詩を取り入れ、子どもたちの興味を引き出してきたか、詩の実作をふんだんに入れて、長年の実践を整理してまとめてくださいました。現場の教師の方はもちろん、詩を書かない人に詩を語る時にも、参考になることが沢山あると思います。 

                           江口 節

詩を子どもたちの暮らしの身近な所に置く

             京都教育大学附属京都小中学校 元副校長 戸田 和樹

 

 長年、教育の現場に立ち、子どもたちのことばの学習に関わってきた立場から、こどもたちの「書く」ことと詩の教育との関りについてまとめておこうと思う。とりわけ、「詩を子どもたちの暮らしの身近な所に置くこと」の大切さを念頭に、次の項目で自分の考えを記しておきたい。

1.書き慣れさせる

2.書かれた文章を読み合うことで、暮らしを共有する

3.楽しんで書く(しゃべり言葉で書くー生活言語詩)

4.詩的知識・技能を獲得する喜びを与える(詩の学習過程とドリル単元)

5.書くためのモデルを与える

6.声に出して朗読したい詩を選ぶ(子どもが選んだ朗読詩集)

7.詩のおもしろさを体験する(連詩あそび)

8.詩人の果たす役割 

(現代詩人の作品が、教師や子どもたちの暮らしからかけ離れたものになり過ぎている)

1.書きなれさせる

 小学校低学年では、まず、書くことのおもしろさを体験させることが大事である。私が現役だったころは、毎日「日記」を書かせ、それを読んで一枚文集にして、学級で読み合うことを大事にしてきた。この時代は、「詩」とか「作文」とかの区別を行わず、「短いお話」という程度で書かせるのが望ましい。私は、その日記にタイトルをつけるように指示していた。「おもしろかったこと」「かえりのこと」「けんかしたこと」など、何でもよいのだが、日記の内容を短くまとめる訓練は、後々の題名指導に役立っていく。

 日記を書かせると読まなくてはならない手間と時間が必要になる。しかし、日記を通して、子どもとその子どもの暮らしを理解することは、「書く学習」はもとより、生徒指導・生活指導の原点でもある。面倒がらずに、その時間を確保してほしいものだ。

2.書かれた文章を読み合うことで、暮らしを共有する

 子どもの書いた文章をどう取り扱うかということである。昔、子どもの描いた絵を教室の棚に放り込んで、掲示もしないという先生に出会ったことがあるが、そんな先生に対しては、「二度と絵なんか描いてやるもんか」と子どもたちは思っているに違いないと思ったものだ。

 子どもの表した表現には、それなりの評価やことばを与えてやらねばならない。日記のノートに赤ペンを入れる。その赤ペンを楽しみに子どもは毎日筆を執るということもありうる話だ。

 帰りの会の五分・十分を「日記の紹介時間」として位置付けるのもよい。順番を決めて、全員の日記を紹介してやる。そうしているうちに、例えば、Aさんが書いた猫の話が発端になって、しばらく猫の日記が続いて出てくることもある。そのうちに学級に猫グループができて、仲良く遊んだりするようになる。詩らしきものを書いた人を紹介すると、その人を真似して、翌日には数人が、詩らしきものを書いて提出してくる。そうなってくると、いよいよ、学級で詩の授業を行ってもよいというサインだとみることもできる。

 一枚文集に自分の書いた日記や作文が掲載されることは、ことのほか子どもの喜びとなる。この頃、学級からの「お便り」は、学校や学級からの連絡事項・お願いなどで埋められていることが多いようだ。私は、写真一枚でもよいので「学級の文化」を掲載してほしいと願っていた。もちろん、子どもの書いたものを紹介できれば、それ以上に良いことはない。子どもの文化を保護者と一緒に共有し、ともに喜ぶ価値がそこにあるように思う。

3.楽しんで書く(しゃべり言葉で書くー生活言語詩)

 次の作品は、「しゃべりことば」で書かれた詩だ。

ママといっしょ

                3年 男子

ママ コーラすきやねん

ママ ドーナツすきやねん

ぼくも ドーナツすきやねん

ママ チョコすきやねん

ぼくも チョコすきやねん

 

ママ おもろいねん

ぼくも おもろいねん

ママ よく話すねん

ぼくも よく話すねん

 

いっしょいっしょで

おもろいねん

もう一作品紹介する。

かわいそうなお父さん

                3年 男子

お父さん 力持ちでやさしいけど

片耳 聞こえへんねん

かわいそうなんやけど

お父さん すごいねん

しっかり車運転できはんねん

すごいわ

 

けど お父さん

幼稚園のころから

耳が聞こえへんのやったんやって

そのせいで

小学校 大変やったみたいやで

でも お父さん

中学校も高校も大学も

耳聞こえなくてもがんばったの

すごいわ

 

お父さん 

三十年ぐらい

耳聞こえへんかったみたいやわ

かわいそうなお父さんやな

 

 いわゆる「生活言語詩」の部類にはいる作品だが、子どもたちに「詩を書こう」と提示すると、たいていは、頭の中で「標準語」が駆け回り、それを構成しようと四苦八苦する。

 ところが、日常使っている「しゃべりことば」で書いてもよいと指示すると、途端に、子どもたちの思考は活性化し、生活に密着した表象を切り取って書き始める。

 こうした傾向は、「えんぴつ対談」(二人で鉛筆で対話しよう)でも、同様の傾向を示す。標準語では、なかなかうまく表現できない子どもたちが、日常使う「しゃべりことば」では、生き生きと書き出し始めるのである。

 私が、こうした書き方に着目したきっかけは、すでに亡くなった詩人の島田陽子さんの「大阪ことばあそびうた」だった。大阪の方言を使った、独特のユーモアのある詩作品を参考に、きっとこれなら受け持った子どもたちにも書けるはずだと考え、試みたものである。この取り組みは、二年生でも六年生でも発達差なしに受け入れられたばかりでなく、気軽に詩の題材を選ばせることをも促した。「こんなんやったら、なんぼでも書けるわ」と言っていた子どもたちの顔が、今でも思い浮かぶ。

 

4.詩的知識・技能を獲得する喜びを与える(詩の学習過程とドリル単元)

(1)詩の学習過程

 詩の「題名表」というものをご存じだろうか。

 詩を書く指導を行う時には、およそ、次のような学習過程を構成する。

①書く前の指導

 ・発想着想の指導

 ・取材選材の指導

 ・構成構想の指導

②記述の指導

③書いた後の指導

 ・推敲批正の指導

 ・鑑賞の指導

 しかし、実際には、このすべての過程を通すのではなく、その単元ではどこに力点を置いて指導するかを決めることが多い。例えば、二年生の「ことばの写生」(地面に十センチ四方の四角を書かせ、その四角の中に存在するもののドラマを詩にさせる)では、「取材選材の指導」(運動場のどこの場所に四角を書くか)に重点を置いている。

「題名表」は、「発想着想の指導」として位置付けられる。

 授業一時間分の書く前の指導(何を題材とするのか、いくつかのモデル作品を読みながら考える。題材の広がり、自分にピッタリな題材を見つける)を行った後、指名印が押された画用紙を提示して、自分の書こうとする題名を書き込むことを支持し、「何日までに、自分の書こうとする題名を書いておくこと」と指示をする。何度、題名を書き換えてもよいことも付け加えておく。(とりわけ、テーマが決められている詩作には有効である)

 この題名表がうまるということは、学級のすべての子どもたちが、書く内容を確定したことを表している。(毎日、帰りがけに、「題名は決まりましたか」と問うこと)題名表がうまった後に、題名表を使った二十分ほどの題名紹介の時間を取り、参考作品を紹介(構成構想の示唆)して記述に移るというのが、書くまでのおおよその指導の流れである。

 作品を記述した後には、推敲・批正の時間を取り、書いた作品を見直しさせる。さらに、幾作品かを印刷し、一枚文集として配布し、読み合って、作品の良いところなどを話し合うようにしている。

 次の作品は、題名表の指導を通して書いた作品である。国民文化祭沖縄(テーマは「海」)で文部科学大臣賞を受賞している。

おかあさんの目

3年 女子

海は

とても大きかった

わたしのそうぞうよりも

大きかった

わたしは

うきわにのっておよいでいた

 

お兄ちゃんは

シャチボートに

うまくのれていなかった

あはは

わたしは

おもわず

わらってしまった

 

もぐってみると

小魚がいっぱいいた

海は

とても

青くて

きれいで

広かった

はまべで

おかあさんが

ずうっと

わたしたちを見ていた

おかあさんの目の中に

わたしたちはいた

 ⑵詩の技能を獲得するためのドリル単元

 比喩やオノマトペといった詩の技能を獲得させるために、その技能だけに焦点を当てた教材を開発している。

 次の二つの作品は、「喩」の学習を行った時の作品である。

3年 女子

花が

ゆらゆら

ゆれている

ああ

海にうかぶ

ブイのようだ

 

 

ぼくのサッカーボール

        3年 男子

ぼくの

サッカーボール

ビューと

いくよ

すごく

早いな

ロケットの

ようだ

バナナのように

まがるし

すごすぎる

 

 この作品の土台にあるのは、三好達治の「土」である。

              三好 達治

蟻が

蝶の羽を引いている

ああ

ヨットのようだ

 

 教室で「土」を読み合い、詩の構造を学習した後、自分なりの表現を求めて、運動場に出る。運動場の適当な場所を決め「ことばの写生」を行う。運動場に十センチ四方の四角を描き、その中で起きているドラマを「喩」を取り入れて詩に書くという取り組みである。

 次の作品は、リフレインの効果を学習した後に書かれた作品である。

 

歩く

       3年 男子

つるは歩いて一万年一万年

雪といっしょに歩いてる歩いてる

 

カメは歩いて百万年百万年

川といっしょに歩いてる歩いてる

 

山は歩いて百億年百億年

地きゅうとともに歩いてる歩いてる

 

でもね人間

ちょっとしかちょっとしか

歩いていないんだねえ

こまる

 

ぼくは九年歩いてる歩いてる

家族といっしょに歩いてる

まだまだもっと

歩かなきゃ歩かなきゃ

 

 昔話や童話は、リフレインを使って話を展開しながら、物語の面白さを作り出している。例えば、「桃太郎」では、猿、犬、雉に黍団子を授けながらクライマックスの鬼退治への準備がだんだんと整っていくという構成がとられている。つまり、同じような内容を繰り返す面白さが、そこにある。

 この学習では、「何」を「どのように」繰り返すかを考えさせることによって、詩の完成を目指している。

 

5.書くためのモデルを与える

 詩の題材が決まっても、それをどのように詩として構成するかが決まらないという子どもたちがいる。そうした子どもたちに、気兼ねなく詩に触れさせるために、書こうとする題材のモデルを用意しておくことにしている。たとえその時に書かれた詩が、モデルの詩の真似事であったとしてもかまわないと考えている。

 次の詩は、「海」がテーマの国民文化祭沖縄の詩を書くときに使ったモデル作品である。

夏が海にやってきた

 

夏が海にやってきた

海は真っ青

空も真っ青

お日様真っ赤にもえている

 

ぼくははだしで飛び出した

あっちっちっち

すながやけてて

思わずぴょんととび上がる

おくれて海もとび上がる

海の家もきしのまつの木も

なみにゆれるピンクのうきわも

白いにゅうどう雲も

スカートすがたのおかあさんも

ピョン ピョン ピョン

 

さあ およぐぞ

まちにまった夏の海だぞ

 

 この作品を通して、「どんな海を知っているか」「心に残った海の話」「どこの海の話」「いつの話」など話し合い、その後に、題名表の書き方の説明を行った。

 モデルにする作品は、かつて担任していた子どもの詩集やコンクール入賞作品集に掲載されている作品から選ぶことにしている。

(沖縄県知事賞)

海のえい画館

        3年 男子

夜の海はえい画館

星の光

月の光

クラゲもチカチカ光ってる

 

あっイルカがとんだ

あっち見て

魚もとんだ

波もとんだ

ぼくもつられてとんだ

ザパン

ドプン

ピョッン

 

雲が月をかくす

あたり一面まっくら

ここは深海?

海はホラー

ブルブルブル

 

朝日がのぼる

月がしずむ

つづきはまた今夜

 

6.声に出して朗読したい詩を選ぶこと(子どもが選んだ朗読詩集)

 詩の学習では、声に出して音読することを大切にする。教科書に載っている作品を学級全員で声に出して繰り返す読むのである。その後に、すこし、「心に残ったところはどこですか」「なぜそう思ったのですか」と問うことにしている。あまり、詩の理解を促す発問をしないようにしている。(誤読は、認めないが) 

 しかし、教科書の詩作品は、あくまでも、与えられたもので、子どもたちは受動的であり、その詩を拒否することはできない。けれど、高学年にもなれば、好きな詩嫌いな詩くらいの読みわけはできるはずである。より積極的に、主体的に詩を選別し、詩を読み味わうことがあってもよいと考えている。

 そこで、「子どもが選んだ朗読詩集」の単元を作成し、図書室から声に出して読むのにピッタリな詩を選び、その詩の説明を加えるという学習を作ることにした。

 5年生の子どもたちが選んだ詩には、ことば遊びから童謡まで、幅広く入っていたようである。まどみちお、阪田寛夫、谷川俊太郎は、教科書にもたびたび登場するので人気があったが、家庭の影響なのか、さほど著名ではない詩人の詩を選んでくる子どももいた。

 この学習では、ふだん受け身になりがちな詩の学習をアクティブで子どもの主体性を引き出す学習へと転化できたようである。

 

あくび             

             谷川 俊太郎

                                     

    ぼくは四十きみは十               

    としは少しはなれているけど       

    おんなじ時代のおんなじ国に       

    ぐうぜんいっしょに生きている     

                                     

    ぼくは四十きみは十               

    ならった教科書は少しちがうが     

    むかしもいまも地球はまわって     

    朝がくればおはようなのさ         

    大臣がなんどかわろうが           

    うそつきはやっぱりいやだな       

    子犬はやっぱりかわいいな         

                                     

    やがてきみは四十ぼくは七十       

    その時も空が青いといいんだが     

    いっしょにあくびができるように

 

 谷川さんは、一九三一年、東京に生まれます。一九五二年「二十億光年の孤独」を発表。以後、多くの詩集を発表します。「ことばあそびうた」など、子どもの世界と関わる作品も多いです。絵本、翻訳の仕事も 多数あります。                                                  

 これは、親か大人かが、子どもに向けて書いた詩です。                

 第一連では、年令がはなれていても、大人も子どもも同じ人間として生きていることが書かれてあります。「ぐうぜんいっしょに生きている 」という部分からは、偶然だけれど、運命的な感じがします。        

 第二連の「ならった教科書は少しちがうが」というところは、自分と子どもは、学んだこと、経験したことは違うことを表しています。でも、そのあとの部分で、地球は変わらないし、自然のリズムも変わらないこと、そして、「うそつきややっぱりいやだな」「子犬はやっぱりかわいいな」というところでは、悪いことは悪い、いいことはいいということは昔も今も変わらないということを表しています。                  

 最後の連の「空が青い」というところは、平和を表し、「あくび」は平和でのんびりした幸せを表しています。                          

 この詩を読んで、ぼくは自分と父のことを思い出しました。それは、五月四日がたまたま父の誕生日だったからです。父は四十三になり、ぼくは四月に誕生日をむかえて十一になりました。この詩のはじめの「ぼくは四十きみは十」というところを読んで、父とぼくに近いなと思いました。                                                          

 ぼくと父が、この時代、この国で偶然出会ったことを考えると、偶然というのは不思議な感じがします。そして、今いっしょにいることが素晴らしく幸せなことだとも思います。                              

 将来ぼくが大人になり、父が老人になり、世界が変わっても、やっぱり今のように幸せで平和な気持ちで、青い空を見上げながらのんびりいっしょにあくびができたらいいなと思います。                      

 今、地球では、戦争をしている国もあり、飢えや病気で苦しんでいる人々もたくさんいると聞いています。その人たちにとっても、のんびりとあくびができる世界になればいいなと思います。(5年 男子)

 

7.連詩のおもしろさを体験すること(連詩あそび)

 次の学習指導案は、私が70歳で勤めていた学校を退職するときに、請われて9年生に行った「連詩」の学習指導案である。

 授業の流れは、義務教育学校卒業という時期でもあり、まず、初等部での思い出を語ってもらい、その後に、連詩の決まりと「飛躍」の効果について説明し、連詩あそびにはいるというものだ。

「飛躍」の効果の説明には、三ツ谷直子氏の「齧る」という詩作品を活用させていただいた。どのクラスでも、作品に書かれている冷蔵庫のある台所から戦地ガザへの飛躍を難なく読み取ることができた。ガザの疑似体験を背景に、冷蔵庫の中の大根の漬物を齧るとその味は、けっして豊かで幸せなものにはならない。そうした効果が、飛躍にはあることを学んだ。

 連詩あそびでは、およそ7人一グループとしたが、人数の加減で6人グループや5人グループでの参加もあった。

 作品が出来上がった後に、グループ代表の作品を選び、最後に、その作品の朗読を通して、学級代表の作品を選んだ。

 90分の授業だったが、どのクラスも、詩を通して「ことば」を構成する面白さを体感できたのではないかと思っている。

国語科学習指導案

連詩(卒業によせて)-表現技法「飛躍」-

                            指導者 戸田 和樹

一 日  時  九学年A組 令和6年2月27日(火)13:35~15:25

九学年B組     2月28日(水)13:35~15:25

九学年C組     3月5日(火)13:35~15:25

二 場  所  京都教育大学附属京都小中学校高等部教室

三 生  徒  京都教育大学附属京都小中学校9年生

四 単元および教材   

 連詩(卒業によせて)-表現技法「飛躍」-

五 単元の目標

  ・表現技法「飛躍」の効果を知ることができる。 

  ・連詩の遊び方を知り、グループで楽しみながら詩を書く事ができる。

  ・複数の詩作品の中から優れた詩を選ぶ話し合いを行うことができる。

六 学習について

「飛躍」は、現代短歌の中でよく使われる表現技法の一つである。

掌(てのひら)の釘の孔もてみずからをイエスは支ふ 風の雁来紅(かまつか)  

塚本邦雄『星餐図』

 この短歌の意は、およそ次のようであろう。

「イエスは自分の身体を釘によって支えている。まるで体操の選手が吊り輪で自分の身体を支えているように」。ところが、一字開けて、結句に「風の雁来紅」が唐突に置かれている。「雁来紅」は、俳句の秋の季語。いわゆる葉鶏頭を指している。結句に「雁来紅」を置くことで、ふいに場面が変化し、情景に色が添えられ、例えば、その赤い色はイエスが流した血の色を思わせるというように、詩の情景を立体化していくのである。この効果を、詩の世界では「飛躍」といっている。

 それでは、現代詩の世界をのぞいてみよう。次の詩は、京都の詩人三ツ谷直子氏の「噛む」という作品である。

 

噛む

 

退避勧告期限まであと一時間

ガザの地上に人の姿はない

わたしはテレビの電源を消して

冷蔵庫の扉をあける

 

夕方買った白菜の漬物は

消費期限が今日までだった

期限の確認を忘れていた

 

消したテレビの奥では

既に爆撃が始まっているのだろうか

紛争地の負傷者の

半分近くが子どもだという

彼らには もっともっと はるかに

続く長い道があったはずだ

その、やわらかく小さな手をつないで

さあ、ここからは

自分で歩いていくんだと

手をはなし、おくりだすこともできない

 

地上には

大きな袋と

小さな袋が

無数に並んでいるという

 

わたしは

白菜の漬物をがりりと噛む

 

 一連二連では、日常の台所風景が描かれている。(ただし、「ガザ」という言葉を置かれていることで、次の展開が想像される)

 ところが、三連・四連では、テレビの奥に繋がっている紛争地へと発想を飛ばしている。描かれている風景の次元が違った次元へと飛躍することで、作品の情景が立体化し、作品の主題が深まっている。この「飛躍」の効果を取り入れた作品展開は見事というほかない。

 五連では、文頭と文末の呼応を行い、詩を着地させている。

 このように、現代詩でも、「飛躍」の効果は絶大で、十五才になる生徒たちが、自分の表現技法として取り入れることは、今後の生徒たちの表現生活を豊かにすることに繋がるに違いないと思われる。

 次に、本時扱う「連詩」のことである。

 連詩というのは、何人もの人が共同で次から次へ詩を書き、それがきちんとつながっているようにしていくという「お遊び」である。例えば、一行連詩であるならば、誰かが、

「悲しみの朝 夢は彼方に飛び去る」

などと書いたら、次に誰かが、

「心を踏みにじるように朝日が昇る」

と書き、さらに、誰かが、

「窓を開け、疲れた手でパン屑をまく」

などと、続けていくのである。

 グループを組んで行うときには、全員にプリントを配り、そのプリントを回しながら全員が一行ずつ書いていくので、書き終えた時には、一気に、グループ人数分の作品が出来上がっていることになる。

 その出来上がった作品を批評し合い、グループの代表作品を選ぶ活動も楽しいものになるだろう。なにせ、どの作品にも、自分の記述があるのだから、どの作品を選んでも、自分の作品だと自慢できるのである。

 今回は、詩作品の中のどこかで書く内容の次元を飛ばし(飛躍を指示する)、作品の立体化を図ろうと考えている。また、書く詩の題材であるが、「卒業」を主題として「連詩あそび」を行おうと思っている。

 さて、授業である。九十分という時間制限と九年生という年齢も考慮して、ひとり一行、あるいは数行を書いてバトンタッチさせていこうと思っている。

 まず、六人一グループとなり、机を寄せ合って着席する。(小学生の時の思い出を語る。戸田との思い出があれば語ってもらう。テーマ「卒業」を意識させるために、「卒業」と板書する)

 次に、本時の主な活動としての「連詩あそび」について説明する。

 グループ一人ずつに配布されたプリントにオリジナルな詩の句を書き込んで隣の人に手渡していき、詩を完成させるという遊びであることを理解してもらう。そして、書き込む句のどこかに表現技法「飛躍」を取り入れることを伝え、簡単に例となる作品を紹介する。(資料配布)

 ここでは、塚本邦雄氏の短歌で「飛躍」を説明した後、三ツ谷直子氏の詩「噛む」を取り上げ、「飛躍」の効果を話し合う。

 こうした前置きの後、作業プリントを配布し、いよいよ連詩あそびに入ることになる。

 作業プリント配布後、次のような示唆をしておく。

ア 連詩は、文章を書いては隣の人に作品を回していくという書き方をすること。

イ 「何」を「どのように」書くかは、教師の指示に従うこと。

ウ 全員が同時に同じ作業をするということ。

エ 決まった時間内に文章を書き上げなければならないということ。一人遅れると全員が遅れる。

オ 一定の時間で、同じ主題の作品が人数分だけ一気に仕上がるということ。

 さて、作業プリントには、氏名を書く欄があり、詩の題名は空欄になっている。(括弧書きで「卒業にむけて」と副題が書かれている。「卒業」を主題にした詩を書くことを示唆)そして、詩の一行目には、すでに「冬の雨が降っている」と記述されている。つまり、今回の連詩あそびでは、初句の「冬の雨が降っている」をうけて、二行目以降の文章を記述していくことになる。

 二行目以降の、教師の指示は、およそ次のようである。

1 ①  どんな雨が降っているかを想像して、「○○〇〇の雨」と書く。

  ②  オノマトペを使って聞こえる音を表現する。ありきたりのオノマトペは避ける。

2 ③  「わたしは」に続けて、教室で行っていることを書く。

3 ④  (飛躍)雨の向こう側にあるもので目に映るものを書く。(卒業を意識した時、何が見えてくるか)

4 ⑤  (飛躍)発想を飛ばした次元の中で、はっきり見えてきたものを数行に分けて書く。

     ・遠くから近くへ、だんだんと一つのものに焦点が絞られる(ズームアップの手法で)

       (例)九年間通い続けた通学路 初めて入った一年生の教室 わたしを見つめる君の瞳など

5 ⑥  その見えてきたものの様子や思いを書く。(二・三行で)

6 ⑦  「冬の雨が降っている」の後、自分がこれから行おうとすること、あるいは自分におとずれるであろうことを書く。

  ⑧  題名を書き込む。

 こうした書き方をすることで、一枚の作業プリントに人数分の句が書き加えられていく。書き出しを行った書き手の意図とはかけ離れた句が加えられることもあるだろう。書き手は、当然前に書かれた句を読んで文章を書き加えるわけだが、必ずしも意味の連なった一行を書く必要もない。偶発的な飛躍が作品の中に起きる事を期待するからである。

 さて、題名には、どんな言葉を入れるであろうか。

「卒業」を意識した連詩あそびではあるが、必ずしもそのことばにひかれた題名をつける必要性はない。題名も詩の一部であり、詩の価値を決定づける一要素でもある。そのことを生徒に伝えて、題名をつけてもらおうと思っている。

 さて、作品が書き上がった後、グループで代表の詩を選ぶことになる。批評の観点は、主題の「卒業」がうまく表現できているかどうかという一点である。

 最後に、選んだ詩を生徒に音読してもらって、授業の終わりとしたい。

 今回は、私の七十才の記念の授業である。私が、三十六年間勤務した附属京都小中学校とお別れすることを慮って、京都小中学校に務めておられるみなさん、国語部の先生方、九年生の人たちが協力して設定してくださった大切な時間でもある。授業がうまくいこうがいくまいが、そんなみなさんの大切な思いをありがたく頂戴して、この九十分の教場に立ちたいと思っている。みなさん、本当に、ありがとう。

七 展開例

1 導入  席を見回して、小学校時代の戸田との思い出を語ってもらう

   ・三十六年間務めた学校での記念の授業だと言うことを伝える

2 展開① 「連詩あそび」の進め方を知らせる

   ・「卒業」をテーマにした短い詩を書き上げることを知らせる。

3 展開② 「飛躍」という表現技法を説明する(資料プリント配布)

   ・掌(てのひら)の釘の孔もてみずからをイエスは支ふ 風の雁来紅(かまつか) 塚本邦雄

    三ツ谷直子氏の「噛む」を紹介しながら、「飛躍」の効果を話し合う。

4 展開③ 「連詩あそび」の決まりを説明する。

   ア 連詩は、文章を書いては隣の人に作品を回していくという書き方をすること。

   イ 「何」を「どのように」書くかは、教師の指示に従うこと。

   ウ 全員が同時に同じ作業をするということ。

   エ 決まった時間内に文章を書き上げねばならないということ。一人遅れると全員が遅れる。

   オ 一定の時間で、同じ主題の作品が人数分だけ一気に仕上がるということ。

5 展開④ 「連詩あそび」を行い、「卒業」をテーマにした短い詩を書く。

   ア ①  どんな雨が降っているかを想像して、「○○〇〇の雨」と書く。

     ②  オノマトペを使って聞こえる音を表現する。ありきたりのオノマトペは避ける。

   イ ③  「わたしは」に続けて、教室で行っていることを書く。

   ウ ④  (飛躍)雨の向こう側にあるもので、目に映るものを書く。(卒業を意識した時、何が見えてくるか)

   エ ⑤  (飛躍)発想を飛ばした次元の中で、はっきり見えてきたものを数行に分けて書く。

   ・遠くから近くへ、だんだんと一つものに焦点が絞られる(ズームアップの手法で)

    (例)九年間通い続けた通学路 初めて入った一年生の教室 わたしを見つめる君の瞳など

   オ ⑥  その見えてきたものの様子や思いを書く。(二・三行で)

   カ ⑦  「冬の雨が降っている」の後、自分がこれから行おうとすること、あるいは自分におとずれるであろうことを書く。

     ⑧  題名を書き込む。

6 展開⑤ グループ代表の詩作品を、話し合いを通して選ぶ。(投票した上で話し合うのも良し)

7 まとめ 選ばれた作品をグループ代表が音読し、鑑賞する。

      時間があれば、私の「卒業生に贈る詩」を朗読する。

八 評価

   ・表現技法「飛躍」の効果を活用し、連詩あそびをすることができたか。

   ・話し合いを通じて、グループの代表作品を選ぶことができたか。

 

 この学習を通した感想を生徒たちが寄せてくれているので、いくつか紹介したい。

授業ありがとうございました。これまで、詩を作るのは難しいという思いがあり、あまり好きではありませんでした。しかし、今回の授業では、楽しく作ることができて、すごく良い経験ができました。            (女子)

先日の授業、とても良かったです。私は、元々詩が好きで、三年い組の時の戸田先生の授業も、毎回楽しみでした。私が言葉遊びの楽しさや、詩・俳句をつくる面白さを知ることができたのは、先生の創意工夫された授業のおかげです。本当にありがとうございました。これからも、お体に気を付けてお過ごしください。  (女子)

僕が初等部で印象に残っている授業は、「蟻が蝶の羽を引いていく」という詩を、自分なりにアレンジして詩作する授業です。先生は、いつも自由で純粋な表現を褒めてくれました。今までありがとうございました。       (男子)

次に上げるのが、各クラスの代表作品である。

自立

 

冬の雨が降っている

近づく別れの雨

ふわふわと舞い落ちる花びら

わたしは

晴れた朝を迎えるのはいつだろうと

ふと考える

十年後の朝陽を思い起こす

 

遠くに見える鳥

汚れたガラス

ボサボサの髪

眠そうな目

目にひそむ決意

九年間の思い出を甦らせ

新しい道へ

 

冬の雨が降っている

傘はいらないかな

(九年A組) 

           

捨てるもの

 

冬の雨が降っている

雲の間から洩れる光を

ふくんだ金色の雨

パチャパチャピチピチバチャバチャ

わたしは

友だちと話している

お菓子を食べている子ども

静かな外の雨

はずむ会話

教室に射す光

友だちのキラキラした笑顔

そこには九年という年月

楽しさの奥にある少しの悲しみ

 

冬の雨が降っている

ボロボロの教科書とファイル

新品の色が変わった教科書に

中学校という文字は

無かった

(九年B組) 

 

終わり

 

冬の雨が降っている

終わりを告げるための雨

ぽろぽろぽろ

わたしは

課題のプリントを書いている

附属の森はやけに静かだ

湿っている木

黒くなった石

水かさが増す池

灰色の空

そこでわたしは育ったのだ

そこでみんな育ったのだ

 

冬の雨が降っている

この思い出はここで終わりだ

(九年C組) 

(連詩あそび 配布プリント 1)

 

(卒業にむけて)

 

冬の雨が降っている

(               )の雨

(                 )

わたしは(             )

(               )

 

(                 )

(                 )

冬の雨が降っている

(                  )

 

 

(連詩あそび配布プリント 2)

 

汽車(卒業にむけて)

 

冬の雨が降っている

(にごった灰色)の雨

(ガタンゴトン ガタンゴトン)

わたしは (目を閉じる)

(雨にぬれたホームがそこにある)

 

(レンガ造りの建物

黒板に桜が咲いていたという記憶

古ぼけた駅舎の沈黙

積まれたたくさんの本の束

そして見知らぬ人たちの顔と顔)

(あの時が わたしの出発の時 

そして その時から九年もの間

汽車は走り続けてきた)

 

冬の雨が降っている

(もうすぐわたしの 乗り換えの時がやって来る)

 

(参考資料1)

 

掌(てのひら)の釘の孔もてみずからをイエスは支ふ 風の雁来紅(かまつか)    

塚本邦雄『星餐図』

※「雁来紅」は、葉鶏頭のこと。ヒユ科の一年草。茎は一~二メートルほどの高さになる。秋、茎 の上部の葉が、赤や黄、紫紅色に色づく。雁の渡る頃に色づくので雁来紅ともいう。

 

噛む

三ツ谷 直子

退避勧告期限まであと一時間

ガザの地上に人の姿はない

わたしはテレビの電源を消して

冷蔵庫の扉をあける

 

夕方買った白菜の漬物は

消費期限が今日までだった

期限の確認を忘れていた

 

消したテレビの奥では

既に爆撃が始まっているのだろうか

紛争地の負傷者の

半分近くが子どもだという

彼らには もっともっと はるかに

続く長い道があったはずだ

その、やわらかく小さな手をつないで

さあ、ここからは

自分で歩いていくんだと

手をはなし、おくりだすこともできない

 

地上には

大きな袋と

小さな袋が

無数に並んでいるという

 

わたしは

白菜の漬物をがりりと噛む

 

 

(参考資料2)

(卒業生に贈る)

夕立

戸田 和樹

真夏のプールを白い入道雲が渡っていく

子どもたちは騒めく草原のように教室に駆け込んでくる

雨の予感が体の中で蠢いている

 

ぼくは緑の黒板に

青いチョークで横に一筋線を引く

水の匂いを纏っている子どもも

風の欠片を運んできた子どもも

光の柱を背負ってきた子どもも 

青い一本線の上下を見つめる

 

さあ 君たち

この線の上下に何を見るだろう

雲 鳥 飛行機  波 草 山

 

線の上に一匹の蟻を置けば大地が見える

一艘のヨットを置けば海が見える

太陽が線の向こうから昇ってくれば

地平線にも水平線にもなるだろう

 

きみたち 生きるっていうことは つまり

そういうことなんだよ

いつも線に隔てられた向こうにまだ見ぬ新しい世界を見つけること

ちょうど初めて逆上がりができて鉄棒の上で腕を踏ん張り

広い運動場を眺めた時のように

新しい自分の始まりに気づくことなんだ

 

青い線の向こうから風が吹いてくる

俄かに辺りが暗くなる

雨の匂いがするぞ

もうすぐ稲妻を伴って夕立が

やってくる

 

8.詩人の果たす役割 

 私が現役の教師時代、詩人の島田陽子さんを6年生の教室にお招きして、「金子みすゞの旅」の90分に渡る特別講座を開いたことがある。子どもたちは、詩人の話を聞くことは初めてのことであった。もちろん、詩人の島田さんも、子ども相手に講座を開くことは初めてのことで、よくぞ引き受けて下ったとうれしく思ったことを覚えている。

 講座は、金子みすゞの書いた詩を子どもたちに音読させながら、みすゞの人生と詩作品を重ね合わせていかれた。そうすることにより、平面的な詩作品が、立体的な構造をもって、子どもたちの前に提示されていく。

 講座が終わった後に、島田さんは「何か、質問はありませんか」と問われた。すると、ひとりの女の子がさっと手を挙げ、「先生の作品の中で、一番のお気に入りの作品は何ですか」と質問した。すると、島田さんはしばらく考え込まれた後、両手を子どもたちの前に突き出され、「明日、私の手で生み出されてくる作品ですね」と、お答えになった。

「あなた方も、過去のことにとらわれず、自らの手で明日の扉を開きなさい」という教えを、子どもたちは、どのように聞いただろうか。

 私も、へたくそな詩人のひとりとして教壇に立っている。私が、作文の指導や詩や俳句の指導を行う時、子どもたちは「面白い」と言って、私の授業を楽しみにしてくれていた。それは、たぶん、私が教師であるとともに、作品を書いている一詩人だと子どもたちは認識していたからだと、今になって思う。詩の授業や詩の話を、詩人が行うということは、それだけで、子どもたちにとっては特別な体験になるということだ。

 ところで、小学校や中学校の図書室を覗いたことがおありだろうか。私が勤めていた学校でも、その蔵書に、詩集はほとんど含まれていなかったことに驚いて、せめて教科書に登場する詩人の詩集くらいは入れてほしいとお願いしたことを覚えている。著名な詩人の詩集がそのような状態であるのだから、現代詩人の詩集などが図書室に入っているということは、奇跡に近いことである。

 そうした状況は、学校や教師が詩に興味関心を持っていないところが大きいと思われるが、逆に言えば、詩人も学校や教師・生徒の身近に詩を置くことに対して、興味関心を持っていなかったことが影響していると思われる。詩人の詩集は、小さな詩人の世界だけで読まれていて、子どもたちや教師の暮らしにまで、落ちてくることはほとんどない。

 詩が、子どもたちの学びから、暮らしから遠ざけられている現状があると私は思う。詩のコンクールにも、作品応募されるのは一部の熱心な教師がいる学校に限られているのが実際であろう。

 詩人の詩集を、詩人が居住している地域の学校に寄贈する。できれば、その詩集の作品について話をするというような場を持てたら、少しは、子どもたちの暮らしの近くに詩を置くことになるのではないだろうかと私は思っている。いや、自分の詩集の作品ではなくても、「詩を書く楽しさ」を伝える講座を、「出前講座」として発信することができれば、少しは、そうした役に立つのではないかと考えているのだが、いかがなものであろう。

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